スマホを持たないということ

 もう、コンピュータはいい、と、どこかで必ず思っている。感じている。

 パソコンは、悔しいが、仕方がない。

 何か書かねばならない身体になってしまったし、でも原稿用紙に書くことができない。ものを書く点で、自分の場合自己セラピーのように書くことが多いが、パソコンに打つ方が修正も効き易く、とにかく便利なのだ。慣れの問題が大きい。

 飛蚊症になって本を読むこともなくなった。パソコンの画面を見ているぶんには、眼の中にそんなに蚊も飛ばない。

 ただずっと向かっていると涙目になる。といって、向かわないでもいられない。どうしたわけか、いっぱい、何か書きたいのだ。頭の中にあるものを、胸の内にあるものを、できれば自分という存在をつくるものを、なるべく輪郭をハッキリした「存在」として、言語にあぶり出したいと思う。

 YouTubeは、飽きる。テレビと同じで、受動的だからだろう。面白いと思って見続ける時はあっても、やはり飽きる。こちらに、自由がない。本でいうところの、余白がない。

 自由とは、主体の中に、「自分から」の中にあるのだと痛感、確認する。YouTubeやテレビといった媒体は、考える、探る、吟味する、というこちらの主体を希薄にさせる。ラジオの方が、よほど良い。聞こうとする意志がないと、DJの話も全く耳に入って来ない。動画は、何の意志も必要なく、ただ見ているだけで目に入って来てしまう。自分は何をしているんだろうと思う。でも、このムダのような時間が好きでもある。

 ためになる、勉強になる、素晴らしいテレビ番組もある。ただ家にテレビがない。たまにホテルや、ツレアイの実家に行った時、やっとテレビを見れる。くだらないと思える内容のものが多い。

 インターネットでニュースを見ても、「こういう記事を出せばニーズがあるだろう、読まれるだろう」といった匂いがするものが多い。

 アフィリエイトのブログ記事も、お金稼ぎがもちろん目的であるだろうから、その内容の信憑性は薄いと思われる。それが悪いとは思わない。ただ自分はウサン臭いと感じるし、好んで読みたいと思わない。

 考えてみれば、シンジラレナイものにこの世は溢れているように思える。ネット社会── 情報が多すぎるせいだろうか。

 いかに沢山「いいね!」をもらうかに、発信者は一生懸命に見えるし、そんなにまでしてどうして認められたいんだろう、と考えてしまう。

 だが今日、「にほんブログ村」で僕のフォロワーの数が1つ増えたことを発見した。嬉しかった。しばらく更新していなかったし、こんな自分の文章に興味をもってくれる方がいてくれる… このことが、ほんとうに嬉しかった。

 僕はまったく機械オンチで、SNSというのが何なのかも、よく分かっていない。フォローし合って、数を増やす?というようなことも、よく分からない。

 以前は小説投稿サイトにも書いていたけれど、今ネットで自己発信しているのはこのブログだけ。よく見つけて下さった、何かを読んで下さった、と、感謝する気持ちでいっぱいです。
 こんなところですみません、ほんとうにありがとうございます。

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 … しかしスマホがないと、不便な世界であるようだ。ドラッグストアでもアプリをダウンロード?するとクーポン券とかもらえるし、安く買える商品があるらしい。

 駅には、スマホで傘を貸し出す自動機もあった。

 が、QRコード?をどうのこうのして、をやったことがない。

 コンピュータに縛られるのは、パソコンだけで充分で、この機械にも心底から愛着がある、とは思えない。仕方なく── でも書けることだけはありがたく── この機械とおつきあいさせて頂いている。

 携帯電話は、メールと電話、これだけができればいい。そして友達も少なくなったから、ほとんど使われていない。

 とにかく、よく分からない「機械」には、それが精密でお利口さんであればあるほど、何か抵抗を感じてしまう。二層式の洗濯機とか、ただパンや餅を焼くだけのオーブントースターといった、単純な構造、シンプルな機械には、まったく抵抗はないのだけれど。