快楽を追わせる記憶

 記憶について考えてみたい。

 記憶とは、生きていた(来た)証しだろう。その記憶は、自分自身にしか持ち得ない。

 誰かと、同じ時間・同じ場所を共有したとしても、その記憶に残る対象は、各々異なっている。

 幼なじみのKちゃんと、40年ぶり位に、一作年か会った。喫茶店で、子どもの頃に一緒に遊んだ思い出話をしたが、その残っている印象、記憶の風景、見ていたもの・感じていたものが、Kちゃんと僕とでは全く違う、というようなことが判明した。

 それは彼女の感じ方・感じた彼女に入ってきた印象深いもの、と、僕の感じた・記憶に残るに入ってきた、それぞれの「入り方」、それを印象として留める記憶の、受け皿のようなものの違いであったろうと思う。

 受け皿というか、持って生まれた感性とか、「これなら自分も受け入れられる」「受容できる」、記憶として残ることのできるものを、ほとんど本能的に選別しているような機能があって、その自分の知らない本能的なものが、意識できる自分の記憶、として「残している」かのようである。

 子どもの頃、僕はKちゃんとだけでなく、彼女の家の隣りに住んでいた男の子とも一緒に遊んでいたらしいのだ。

 そう言われてみると、そんな男の子もいたような気がする。だが、僕の記憶の中にその男の子は存在せず、顔も思い浮かばない。Kちゃんが好きで、Kちゃんのことばかり見ていたせいかもしれない。

 だが、なぜ僕がKちゃんを好きだったのかを僕は知らない。

 母・祖母以外の、初めての異性で、本能的に興味、関心があったのかもしれない。

 だが、なぜ異性だからといって関心を持ったのかといえば、わからない。本能といわれても、その本能が何であるのか、なぜ備わっているのか、知ることができない。

 だから記憶も、「なぜ自分はこんなことを覚えているのか」、わからぬまま記憶され、その記憶によって「自分とはこういうものであるらしい」と輪郭がつくられているかのようである。

 とするなら── 自分とは、わからない。理解不能である、となって全くおかしくない。そしてその自己、自分なるものを抱えているのは、おそらく僕だけでない、と思いたい。

 自分がわからないから、「これが自分だ」とほんとうに確言できないから、人に向かって表した自分(仕事であれブログであれ)が高評価されれば、なんだか自分自身が高評価された気になって嬉しい気持ちになったりするのだ。

 低評価されれば、あまり嬉しくなく── 高評価を得たい、そんなことばかり書くようになる。

「これがほんとうの自分だ」と、自分のことなのに自分で決められず、人の目の評価ばかり気にするようになる。

 おかしな話だが、「自分がわからない」「自分がわかりたい」のが人間であるのだとしたら、そうなっても全くおかしな話ではない。

 ただ、そういう自分を見つめる自分── それは全く自分に対する自分で── があること、それを知れること、他者を取り入れた自己があること、他者に取り入られた自己を自己とするでなく、他者を取り入れた、取り入れようとする自己があること、その自己と、その自己をみつめる自己との関係が、他者と関わる前にあるということ、ここに重きを置きたいものである。

 ゴータマさんの言葉でも、こんなわけのわからないことを書いている自分の励みにでもするように、ちょっと拝借してみよう。

 誰もが、自分を持っている。だから、人を傷つけてはならない。誰もが、自分を愛している。愛している自分を、誰もが持っている。その自分を、傷つけてはならない。だから、人を傷つけてはならない──

「自分と自分との関係」を大切に。そこから、「世界」が始まっている…