今やるべきこと(やった方がいいと思えること)

 伸びすぎていると思える庭木の剪定。一気にやってしまいたいが、そうすると後で反動が来る。腰がおかしくなったり、生活に弊害が出ることになる。この「揺れ戻し」で、近年ひとりで痛い目に遭っている。

 勢いで生きて来た(良い状態の時も悪い状態の時も)者として、もう勢いのままにイケない身体にお世話になる以上、ムリはいけない。で、一気にやるのでなく、地道に、今日はここまで・今日はここまでと、少量でも片づけていきたい。

 身体から学ぶことは多い。ひょっとして自分は、身体からしか学んで来なかったようにも思える。この「知らない私」に、あたかも自分自身が振り回されてきたように。

「自分自身にこそ学びの場がある」ソクラテスの云う通りだ。

 自分を教科書にする。言葉は違うが、ブッダもそんなことを云っていた。自分の中から学び、やがて自分を制するように──

 ここ二、三年、ムリをして(ムリをしたと後から気づく。やっている時は夢中なのだ)、あとから身体がおかしくなって整体に行った。

 その整体屋さんは宗教でもなく哲学というのでもない。ぼくも宗教は疑いの目で見、そして哲学というほどの哲学も持っていない。

 ただ、彼とぼくに接点があるとしたら、宗教「的」な、またもしかしたら哲学「的」なところ、言えば「あっちの世界」を見る目を持っている、というところかと思う。

 だから話していてもぼくは結構そのままでいられるし、特にヨロイを纏おうとも思わない。ここのところで、彼はぼくにとって貴重な存在である。

 こう書いていていつも思うが、哲学というのは何といかめしい言葉だろう。とっつきにくい。

 ぼくは哲学なんかしてるつもりはない。でも、よく哲学的だとか言われる。ただ自分の考え、頭の中、考えていることを開示しているだけで、心外だ。

 でも、そう人が言うのも分かる。ぼくが自分の思うことを言い表すように、その人も、ぼくに対して思うことを言い表しているに過ぎないのだ。

 これは仕方がないことだと思う。心外というか、あまり気持ちは良くないが、心内、想像できる範囲内だ。

 さて、「やるべきこと」。ずっと、オレのやるべきこと、オレのやるべきことは、と探してきた思いがする。小・中学とほとんど行かなかったから、自分の家で「やるべきこと」を探してもいた。

 だが、それはオトナになっても変わらなかった。やるべきこと、オレの、ほんとうにやるべきこと…

 しまいには、何のために生かされているのか。何のために、生きてるのか、に変わっていった。自然な流れである。

 日常的な、やるべきことは分かっている。今はその庭木の剪定であり、切った枝葉の整理であり、また室内の掃除であり洗濯であり買い物であり(あまりお金のかからない)料理、晩メシづくりである。

 だが、何のために生まれたのか、なんで生きているのか、それをぼくはほんとうに知れない。知っていない。

 何をしに生まれてきたのか。

 意味が、あるのだと思う。願望、かもしれないが…。

 今のところ、ぼくには、恥ずかしい言葉だが、人間は(うわぁ!)平和を、平和な世界をつくるために、生まれてきたんだと思っている。

 でなければおかしいではないか。

 平和がどうの、悪がどうの善がどうのと考えられる、そんな価値基準を持ったのは、おそらく人間だけなのだ。ほかの生物は、たぶんそこまで考えて…考えているかもしれないが、およそ環境を人間ほど破壊するちからを持ってはいないだろう。

 自然、自然のままに、そのことわり以上のことをせず、その自然の理の中でしか生きられないとしても、それを人間ほどに壊すことなく生きている。

 ぼくには、これがほんとうに生きる知恵のように思われる。

 ぼくは、そのような知恵を、知恵を知恵とも思わないような知恵を、この身につけたいんだと思う。

 だが人間…、なかなか、そうも言っていられない。

 それ以上に、言うことが多過ぎる。何が肝要肝心なのか、わからぬほどに、言ってしまえば要らぬこと、要らぬもの(言語?)が多過ぎる。

 この僕のブログなんか、要らぬ言葉ばかりでできているのかもしれない。

 でも、これも仕方ないのだ。「人間だから」「こういうヤツだから」としてしまおう。

 甘えた根性も見え隠れする。

 でも、何のために生まれ、何のために生きているのかについては、真剣に考えたい。これは譲れない、譲りたくても譲れないものだ。