山川方夫全集最終巻(冬樹社)で、山川について熱く語っていた江藤淳が自殺していたことは、去年実家に行ったとき兄から聞いた。
山川方夫について話していて、曽野綾子は「あなたは懐疑主義者でした」と山川への書簡の形で評していたこと、また江藤淳は「洋酒天国」とかいうサントリーの刊行する雑誌の、当時のボスであった山口瞳に、雇われの身であった山川がずいぶん虐められていたことを糾弾していた…
そんな話の中で、江藤淳は自殺しましたねえ、風呂場で手首を切って…と兄が言うのだった。
知らなかった。その文面を見て、親友・山川方夫への熱い情熱、正義感というか、とにかく熱い人だなぁ、という印象だった。その江藤淳が自殺していた…
およそ自殺しそうにない人が、自殺してしまう。作家で驚いたのはモーパッサンだ。あんな健康的な、生き生きとした田舎娘なんかを描き、勢いのある素敵な文体で、でもまさか最期は精神病院に入っていたなんて知らなかった。
三島、太宰は、そういう生き方をしてきた人だから、もうあきらめもつく。
でも、たとえば音楽家の加藤和彦、この人の自殺も意外だった。驚いた。柳に風のように、しなやかに生きているような人だったのに。その音楽も好きだったから、よけいにショックだった。
「夏目漱石論」で世に出たはずの江藤淳。評論家、批評家。
どうも健康を害していたらしく、また奥様に先立たれたこともあってか、あれほど情熱的だった人が、その情熱を失っていった…
モンテーニュのいう通り、「健康第一」かと思う。
モーパッサンも、失明したか、眼の病気で、この病は彼の「生きる基盤」のようなものを失わせたのかと思える。
残念なことだ。悲しいことだ。
身体に宿る「気」。その身体が故障すると、気力、生きる気力さえ奪われてしまうのか。
そう考えると、身体と精神は同じ一体であるように思われる。
おまえがダメになったら、わたしもダメになるよ。
月と地球。そんな関係なんだろうか。人間、一個人、ひとり、一つの人間は。
しかし情熱的だった人が、情熱的でなくなると、ショックが大きい。
自殺、それが最後の情熱だったのだろうか。
いや、熱は、生きるためにあるものだ。けっして、死ぬためにあるものではないだろう…
最終的には死があるとしても、生きている熱、熱さ…生きている身体に備わっている力は、死ぬために使われるものではない。
しかしショックは、「意外」を伴う。
あの情熱的だったはずの人の自殺、これがこんなに自分にショックだったのは、情熱の脆さを知っているせいかもしれない。
自分にも、この情熱の脆さが、この身体に宿っていることを知っているからかもしれない。思い当たることは、多々ある。
だが、やはり死んではならない。ましてや、自分から…。
それは自由だ。人間が人間であるために、その人がその人であるために、そのための、最後の自由だ。
だが、やはり、どうしても、まわりにいる人間は、つらい。つらくなる。
会ったこともない、文を読んだだけの江藤淳の、もう25年前の自死を去年知った自分が、こんな思いになるんだから、もっと親しい人だったら猶更だろう。
確かに、自殺をほんとうに決意した人に、自分は何もできないかもしれない。
でも、何だろう、汚い言葉でいえば、…できれば、寄り添いたい。
自殺を考える人間が、その一人ぽっちの自分の中に、自分自身に寄り添えるもう一つの自己があったらいいのだが。
いや、これはもう理屈ではない、何というか何ともいいようのない、いい得ないものだろう…。