(1)死にたいのではない、生きたいのだ。

 評論家のように居丈高に言いたくないし、ただ自殺を考えている人に、伝われば、という思いを込めて書ければと思います。
 自分も考えていたことがある、でも死ねなかった、という情けない過去もありますが、偉そうに何か言える内容のものでもありません。
 ただ正直に自分のことを書き、もし悶々としていらっしゃる方がおられれば、「門」を解き、「心」があらわれる、そんな文章になれば幸いです。

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〈 自分第一。あとは、すべて二の次。〉
 実際のところ、けっこう、多くの人が、そうなのだと思う。意識するか、しないかの違いだけで。
 家族のためだとか、ローンのことだとか、責任がどうの、社会的にどうのとか、そんなことは単なる形に過ぎない。その形に囚われて、死にたいと思い、形に囚われて、生きなければと思うのだ。
「生まれた」根っ子は同じだが、そこから伸びる枝葉が、異なるだけで、どこへ向かうか、誰も知らない。

 それは意思というより、ある種の必然で、運命とも言い換えられる。そもそも生まれてきたことに意思はないし、死ぬことにも意思は存在しない。
 ただ「そうなっている」だけで、その生と死の間に、この時間が、「生きている」と言える時間があるだけだ。
 そして意味はない。
 無意味であること、それが、どうもホントウのことで、だから素晴らしいことであるらしい。無意味であるから、そこは何でも入り込める、自由な小部屋であるらしい。

 ところが、どうしても心が捕らわれる。意識の介入によって。
 くらべる必要もないのに、自分はダメだとか、みじめな気持ちになって、生きていても仕方ない、つらいだけになって、いっそ死んでしまおう、という情態に陥る。
 逆に、生きなければと考える人は、くらべる必要もないのに、くらべることでイイ気になったり、ガンバロウ、としたりして、その方向は全く逆のように見える。

 が、「くらべる必要がない」ことは同じなのだ。なのに、どうしてか、くらべることが必要になって、くらべる。
 ひとと、くらべて、優位に立つ人は、自殺などけっして考えない。「劣位」に属した、と意識する者は、自殺を考える余地が与えられる。
 しかし、一体、何が劣で何が優なのか、分かったものではない。
 優も劣も、意識の上にしか立てない、モロい、か弱いものに過ぎない。

 そもそも、「生きている」という意識があるから「生きている」と言えるのであって、その意識がなければ、生きている、などと、夢にも思うまい。
 まわりがどんなに「お前は生きている」と言ったところで、本人にその意識がなければ、何も言われていないことになる。
 意識の上にしか成り立たぬのが生だとしたら、この今、世の中に沢山の人が生きているとしても、生きているのか死んでいるのか分かったものではない。

 自分がここにいるという意識がなければ、存在すらしない。これが、生の実情、実相と言って差し支えないと思う。
 そのだいじな自分を殺すのが自殺である。きっと、生き物の中で、こんな思いに捕らわれるのはヒトだけだろう。

 不自然、自然でいえば、けっして自然でない。生きたいとする身体、生きるためにある時間を、ないがしろにすることになる。それでも、自殺を考える自分の中では、自分を殺すことが必然のように感じられてしまう。

 ヒトが、自然、緑やら海、山に惹かれるのは、自分の中の必然に、本来ある自然が、損なわれてしまったからのように思う。植物や動物のように、もしヒトが生きれたなら、そんな自然など意識もせず、ただあるだけの自然に意味など与えないだろう。
 自己の、外にある自然にも内にある自然にも、不干渉・没交渉でありたいとすること。それが、死にたい心だと思う。

 ところで、この手記を書いている自分としては、最初にそのような心がうまれたのは、いじめられたわけでも何でもなく、不登校児になって、自分は「劣」である、という意識をもった時だった。死にたいというよりも、「消えたい」、「いなくなりたい」が近かったと思う。

 社会から、生きるべき道から、外れてしまった、落ちてしまった。この意識が、自分をそのような心へ運んでいった感覚は、今も生き生きと残っているのは、このわけのわからない自己というもののまま、特に変わらず、20歳を過ぎ、30を過ぎ、チャンと歳を取ってきたからだと思う。