(2)理由がないということ

 私が「消えたい」と思ったのは、自分の存在が周囲に多大な迷惑を掛けるからだった。それは実に分かり易く、自分が学校に行かなくなってから、母が泣き、祖母も元気がなくなり、つまり、家の中が真っ暗になったのだ。登校を拒否する理由が確固としてあれば、学校も親も、私への対処の仕様があった。だが、私にはその理由が自分でも分からず、周りとしても対処の仕様がなかった。

 私に分かったのは、「自分がここにいることが、この家を滅茶苦茶にさせている」ということだけだった。この自分がいなくなれば、母も泣かずに済み、祖母も元気を取り戻し、家は「普通」の状態に戻るだろう、としか考えられなかった。

 自分が家から消えること。これが当時9歳だった私に考えられた、自分自身への唯一の処置だった。
 といって、家出ができたわけでも自殺ができたわけでもなく、どうしようもないまま、私は家の自室に閉じこもり続けていた。

 親が、「学校に行かなくていい」という小児精神科医の意見を取り入れてから、登校を強制されることはなくなったが、「普通ではない自分」の意識が消えることはなかった。不登校のまま中学を卒業する段になって、初めて自殺が現実的に思えてきた。

 学校にも行かない自分が、これからどうやって生きて行けるというのか? 全く見当もつかなかった。高校へ進学する学力はない。ならば働くしかない。だが、中卒でマトモに働けるほど世の中甘くないだろう。どう考えても、どんな希望もあり得ようがなかった。唯一の希望、自分に実現可能な望みが、自殺のように思えた。この自分であるからダメなのであって、この自分そのものを消してしまえば…と。

 だが、知り合いの紹介でセブンイレブンで働き始め、ああ自分はこの社会でやって行けるんだという自信めいたものがついた。すると、今度は学校に行きたくなった。定時制に入学し、ここで初めてイジメ、というよりリンチだったが、を経験し、退学した。大検から大学に行ったが、面白くなく、大学を辞めようかという頃、やっと「この世に自分の居場所はないのではないか」という疑念が、現実以上に現実味を帯びて、身体の芯から感じられた。

 しかし、何か具体的なきっかけがなくても、どうしたわけか自殺というものに、ずっと惹かれている自分が、常に心の奥にいたように思う。働きながら学校に行く、一日が二回あるような充実した時期にあっても、図書館でシルヴィア・プラスの「自殺志願」などを借りたりしていた。初めて本を読んで泣いたのは、中学の時に読んだ高野悦子の「二十歳の原点」だった。
 この二人の著者は、いずれも自死している。そして私は、この本を、宝物のように大切にした。
 なぜ死ななければならなかったのか。悲しかったが、しかし、そうならざるを得なかった二人のことが、愛しく、他のどんな作家よりも、自分には大切に思えた。

 中学の時のことを書けば、こんな私にも一丁前に恋人がいた。それも、彼女が死にたいと考える人であったからだ。自分以外で、死にたい人の存在を初めて知った私は、それこそ天に昇るほど嬉しかった。孤独から、解放された気がしたのだ。彼女の存在を、掛け替えのない、死なせてはならない、大事な大事な人であると思った。

 このおかしな感情、思いは、私自身が生きたかったことの、裏返しだったと想う。自殺を考える時、私はひとりぽっちであることを強く意識していた。大多数の「普通」から落ちこぼれ、「こんな自分」を意識すれば、「孤独」(キザったらしい言葉だが)にならざるを得なかった。私は、彼女を、ほんとうに愛したと思う。だが、それも自分が救われたい、自分を救いたい、自分を生かしたい、その願望から溢れるように漏れ出た、歪んだ「好き」であったのかもしれない。私は、自分が孤独であるという意識なくして、彼女をあんなにも好きになれなかったと思う。

 自殺を初めて具体的に試みたのは、大学を辞めて、知り合いの紹介で予備校でバイトを始め、そこへ足が向かなくなった時だった。私は「ここが自分の骨を埋める場所だ」と決めていた。所謂「一流企業」だったし、正社員になる道もあり、職場にいる人たちも、きっと素晴らしい人たちだった。だが、やはりさしたる理由もなく、私はそこを「登社拒否」状態になってしまった。

 この時、大学時代に手にしていた「最も安楽に死ねる方法」という本を初めて実践的に読み、そこに書いてあったクスリをデパートで買い、深夜に酒とともに飲み始めた。(このクスリも、大学時代に既に入手していたものだった。だが、ある日、それの入った手荷物を電話ボックスに置き忘れ、そのまま返ってこなかったのだ。で、このとき買い直したのだった。大学時代、それは「お守り」のようなモノで、いつでも死ねる安心感を私に与えていた。それだけで充分だった)

 だが、「ここにずっと勤めてやる」と決めた自分に裏切られ、とことん絶望した気になった私は、もともと生きるにそぐわない、もっと早くに死ぬべき人間だった思いを新たにして、やっと本来の自分に帰れると思い、自分のするべき仕事、自殺、という作業に取り掛かった。
 だが、結局50錠も飲むことができず、また、その1、2年後、「この薬では死ぬことはできない」と、船旅をしているとき知り合った看護士さんからキッパリ言われ、ああそうだったのかと知った。