(3)死ぬことを考える時

 何だかんだと友人らしき人達もいて、恩師のような人もおり、ずいぶん私によくしてくれる人もいた。だが、そのような存在は全て、「こんな自分はダメである」意識の前には、ほとんど無力のように押しやられてしまった。
 常に自分は、人に対して何か演技をしているようだったし、ほんとうの自分ではないように思えた。自分にとってのほんとうの自分は、死ぬということを真剣に考える時と、ひとり、自分には生きる力がない、と思える時だった。

 たとえば恋人とセックスをする時も、お酒を飲んでみんなでワイワイやる時も、きっと楽しい時間に違いないのに、どうしてか、「もののあはれ」とでもいうような、刹那的な、憐憫めいた気持ちになってしまうのだった。といって、ひとりでぼんやりしている時も、心臓がドキドキし、何をしていいのか分からず、安易に友達を求め、同じ時間を共有する相手を求めてしまっていたのだが。

 村上春樹の「ノルウェイ」を読めば自分がタフな主人公になった気になり、モーツァルトを鳴らせば心地よく聴け、その時は気持ちがいい。だが、ひとりの時間でも、自分がそれら本や音楽に「持って行かれ」、ほんとうの自分ではないことを意識した。

 そして、ほんとうの自分なんて、この世にはいないのだと思えてくる。この世からいなくなるのが本当の自分だとしか思えなくなり、すると、また心臓がドキドキし出し、情けなく涙ぐむ。自分がやるべきことは何なのか、一体何のために生まれ、生きているのか、不安な気持ちばかりでいっぱいになり、夢の中にいるように現実の自分が、全く定かでない、浮遊している他人のように思えてくる。
 死というものが、そんな私には、唯一無二の、これ以上ない、何か絶対的なものに思えた。

 しかしあの夜、50錠飲めば死ねると信じていたが、25錠で私は断念してしまった。もう喉に通らなくなったのが理由のようだったが、私はほんとうに最後まで潔く死のうとすることができたか、疑問が残る。たとえ1錠でも死ねる薬を飲んだとしても、自分はあがき、飲んだ一瞬前の自分に抵抗し、どういう形でか、自分を救済しようとする動作をしていたように想う。
 大学のサークル、福祉研究部の先輩の、「頭は死にたいと思っても、身体は生きたがっているからなぁ」は、今も残っている言葉だ。

 賢者の石を取り出せば、戦後文学の椎名麟三の、「人間は頭の中に飛び込んで自殺する」は、ほんとうだと思う。
 老荘思想の「荘子」の、友人を亡くした登場人物が「ああ、あいつは真実の世界に行ってしまったけれど、われわれはまだここにいるよ。ああ」と嘆くのも、モンテーニュの「自殺する自由も奪われたら、われわれにどんな自由が残されるというのか」も、ほんとうだと思う。
 この世に、唯一絶対のものはない。ヘラクレイトスの「人は、二度と同じ川に入ることはない。いつも、川の流れは新しいから」もほんとうだと思う。

 やはり大学の友人に、「自殺未遂するために、自殺未遂しました。どう転んでも、死なない、暖かい春の海に入ったんです」という人もいた。
 少しおつきあいをした、20歳の頃のガールフレンドは、自殺を知ると、クセになる…、と言った。
 死にたいと考えることは、どういうことなんだろう、と、よく考える。
 なぜ、生きていることがイヤになるんだろう、と考える。

 賢者の石をまた取り出せば、ハイデッガーは「人間の存在は、不安である。気分である」というニュアンスのことを言う。不安であり、気分であるならば、それを否定する、否定したい自我が現れる。いや、自我というのは、否定をもってしか成り立たないのは事実であるようだ。
 大江健三郎は、「人間は言葉で考えている」という。言葉は、論理を要求する。しかし論理的に生きられぬのが人生で、それを考えることによって袋小路に迷い込んでいく、ということか。

 ともかく私は、以降、明確な自殺未遂は、絶対的にしなくなった。あの夜のあと、翌日の夕方にケロリと目覚め、自分の身体が急に心配になり、知り合いのカウンセラー(世話になったことはなかったが)に電話で相談したほどだった。そして何もなかったように外を歩き、ああ、道路がある、店がある、ポストがある、と、いちいち感動していた。死ぬことにくらべたら、生涯勤めようとしていた職場を「出社拒否」する自分など、小さなものにも思えた。