死ぬべき人間。この「べき」について考えてみよう。自分は、死ぬべき人間だと思っている。
死ぬしかない人間。この「しかない」についても考えてみる。
「べき」。これは観念だ。自分は死ぬべきだと思う。そういう人間だと思う。生きて行けないと思う。どこにいても、息苦しさを感じる。この世に自分の息が吸える場所が無いように思う。── これらの思い、感じも、観念だと思う。この観念、凝り固まった観念が、この私を生み出している。
「しかない」。これは、観念から派生した、観念を母体に、そこから一歩進んだ、「これしかない」という一種の窮地、進んだのだが追い詰められた、そこですることは「これしかない」という、最善であり最悪であり、また善も悪もない、いわば観念の進化した、観念の一層凝固した、選択の余地を持たない、一個の石と化している。
窮鼠猫を噛むという。この場合、猫は己自身であり、その猫は己の観念が生み出した世界、全世界そのものであり、追い詰められた鼠も、己自身なのだった。
そしてこの場合、「死ぬしかない」という場合、追い詰められた自分によって、追い込んだ自分に襲いかかるという、自分によって自分を殺そうという、何しろ追い詰められているのだから、その「敵」をやっつけるしかないという、「しかない」「死ぬしかない」道が出来上がる。
だが、こんな場合に限らず、ほとんどの人は自分の観念上に生きているのであって、それがたまたまこの場合、自傷的な、だから自殺的な方へこの観念が働いているだけであって、この観念そのものは特異なものではない。
おそらく誰もが持っている観念が、この場合自分を苦しめる方向へ、過剰に働いただけなのだと思う。
だが、そんなことを言ったところで、どうにもならない。何しろ私は一個の石、観念の凝固した塊、観念の化物となっているのだから、もう、どうにもならないのだ。
それは牢獄にも似ている。私が看守であり、私が囚人だ。私は鉄格子の中にいる。狂おしい、狂気の発作に身を焦がす思いがする。どうにもならないコンクリと鉄、ここから抜け出ることは不可能だ。だが、狂気の発作はこの自分を取り囲む壁を壊したいとする。
ムリだよ、ムリだよ。看守が私をなだめる。鍵はここにあるからね。看守は、ズボンのベルトにじゃらじゃらと鍵を束にしてぶら下げている。
そうだ、鍵は自分にあるのだ。私は、しゅんとする。
いや、ない! 私は、再び狂気に取り憑かれる。今まで、ずっと探したのだ。ずっと探してきたのだ。でも、なかった!
お前が持っているからだ。私が、私に言う。お前が持っているからだ── お前は、私ではなかった。お前は私のふりをして、私ではなかったのだ。
私は、お前に欺かれたのだ。お前は私ではなかった。お前は私ではなかった!
私は看守に訴えた。泣きながら訴えた。
だが看守は、蝋人形みたいに動かない。何も聞こえず、何も見ていないように、一個の人形のように突っ立っているだけだ。
── 私の観念は、この牢獄であり、この囚人であり、この看守であり── この牢獄と囚人と看守のいる世界、これが私の全世界であり、ここから一歩踏み出す── この場合「しかない」「死ぬしかない」の「死」へ、だから一歩踏み出せない、つまり死ねないということで── だから生きれない、ということでもあるらしい。