看守と囚人(2)

 ならば、「生きる」方向へ、行けもするだろう。

 一歩踏み出すことには変わらない。

 ただきみは、それをすることで自分が死ぬと思っている。

 きみがきみであるところの、「きみ」でなくなると思っている。

 きみでなくなったとして、それが何だというのだい?

 きみは、きみではないか。

 どんなにきみがきみでなくなる、それは死だ、としたところで、きみは生きているではないか。死んではいないではないか。そしておそらく、生きて「行く」確率の方が、高いではないか。

 それに、どんなに死にたいなどと念じたところで、そんな簡単にきみは死ねやしないのだ。今までも、そうだったではないか。死にたいと思うこと、ここにきみは、ただ安息を見い出しているだけなのだよ。

 それでいいではないか。ありがたい安息ではないか── 死にたいと思えることは。

 その気持ちを大切に、生きなさいよ。きみが思っているほど、重大なことではないよ。

 どんなにきみが変わろうと、きみの中の変化でしかない。きみは一体だ。きみの思う自分が変わろうと、どんなに変わろうと、きみはきみという、一体だ。

 きみが、きみであることに変わりはない。

 それで、いいんだよ。いいもわるいもないんだよ。でも、どちらかといえば、いいんだよ。

 さて、夜だ。夜は寝るためにある。眠れるか眠れないかはさておき── こんな夜毎の、寝る、朝に起きる、この繰り返しも、言えば生と死の繰り返しかもね。

 だって自分が自分でなくなること、自分を認識できなくなること、一種の忘我状態、これを死と呼ぶのなら、寝ている間は死んでいるも同然かもしれないからね。

 そうか、きみは死が怖いから、眠れない、眠りたくないのかもしれないね。

 まぁ、でも、… いや、何でもないよ。

 おやすみ。おやすみなさい・・・