宝もの(1)

 昨日、自分との対話の中で次のような想念が浮かんだ。

「私がどこから来て、どこへ行くのか分からない。私は自分の始まりを知らない。終わりは知っているようだ」

 から始まって(自分との関係が自意識から始まったことは知っている)、

 では他者との関係は? に繋がっていった。

 彼女は既に「いた人」である。私もいた。で、関係が始まった。

 人との関係は、始まりがある。(意識しなくても)

 それを私は知っている。また、この関係には終わりがあることも知っている。

 自分との関係は不明瞭だ。他者との関係は明確だ。

 しかし関係、人との関係、その明確さとは何であるか? 気まずかったり、この相手とは相性が悪いとか、相手のイヤなところばかりがハナにつくとか。この、一体どこが明確なのだろうか。

 自分にくらべて、他者は明確に見える。その他者と関係する自分は、いぜん不確かなままであるようだ。それでも自分を確かと思わせるのは、この自分の内にある気分だ。

「イヤな気分」を確かと思う──「イヤな気分」が確かと思わせるのだ。

 そこには、記憶がある。記憶は、根拠である。「あの時お前はこう言った」あの時のお前の言葉で、オレは傷つき、もう立ち直れなくなったのだ── とか。

 記憶は助長する、「悪い気分」を助長する。「あの時のお前の言葉」が、その後のお前の言動すべてに通じている── ように見えてくる。私が、「あの時のお前の言葉」を強く記憶し、そこからお前との関係を築いているようなものだ。

 そうさせているのは、私自身だ。私は頼りない私の気分にすがり、その気分にさせたのはお前の言葉であるとし、そこからお前との「悪い関係」が始まってしまった。

 そうさせているのは私自身だ。相手は、もう忘れている。てんで、気にしていない。彼女は強い。「わたしはわたしだ」としている。

 私は、そうならない。相手のことばかり気にしている。気にしないと、自分がなくなるかのようだ。

 そうさせているものは、この私自身だ。私がそうしたがっている。させられているのではない。したがっているのだ。そのために、その証拠品として「あの時お前はこう言った」を、後生大事に胸にずっとおさめている…