自信

 自信というものが、自分を信じることから始まるものだとしたら、私には、その自信はありそうでなさそうなもので、何とも心許ないものだ。

 自分にも、自分というものはあった。自我というものがあった。昨日、「落ち着くまでの過程」を書いて、その過程で改めて認識した。私には「登校したくない」という自我があった。だが、その自我を、私は信じることができなかった、と言えるだろう。信じては、いけないものだったからだ。

 信じるべきは、「まわりはそうしている」ということだった。この「まわり」、つまり「みんな」の前では、私の「自信」など、吹いて飛ぶべきもの、なくすべき自信、消し去るべきものであった。

 ところが、それでも、私には自我があった。私には、これ以外に、特に信じるべきもの、信じたいものはなかったのだが。

「まわり」を自分に取り入れ、自分のものとする。それを無意識に結局「信じ」、そこから始めることも、「自分を信じる」ことに他ならない。たぶん大抵の人が、そうしている。私も、きっとそうだ。「取り入れたい」とする心の動きに関しては。

 だが私の場合、取り入れたいとする「まわり」に対し、つまり「まわりと同化したい」とする自分に対し、抵抗をする自我があったということになると思う。

 そも、「同化」の意識があった時点で、もう、無理があったように思えてならない。そう、無理だったのだ。

 この無理さは、常に私につきまとっている。常に私には「まわり」があるからだ。そしてその「まわり」の一員である誰かと接するに、相手のことをよく、よく考えざるをえなくなるのだ。相手と私の間に流れる微妙な空気を観察する── それが気になって仕方ない。

「私は、変人でないだろうか。『みんな』と変わっていないだろうか。『みんな』の枠からハミ出していないだろうか、『みんな』と同じようになれているだろうか」

 そんな不安に駆られ、常に相手の顔色をうかがうのだ。私以外の「まわり」は常に私でないからだ。そうして対面していれば── たいてい相手の人となりが分かる。そしてたいていが「普通」なようであり、私と違う「自我」を持っており── 「まわりから得た自信」、そうして生きてきた、とでもいう自信を持っており── 私はその相手の「自信」に圧倒されてしまうのだ。

 そしてその相手に対した私の対し方を、あとから思う。あんなことを言ってよかったのか、あんな態度でよかったのか。私は反芻を始め、そして必ず後悔をする。何も失礼な振る舞いをしていなかったとしても、後悔する。

 単純に、私は「イイカッコしたい」「よく思われたい」だけなのかとも思う。だが、そう思われたい自分をつくるものは、私の場合、「自分の自信のなさ」がいつもあるように思える。

 そうして、この「自信のなさ」がどこを発祥地とするのか、が、──理由をつければ、あの不登校だったか、ということだ。

 自我というものが、何かを拒否することによってしか発芽しない、その対象なくして「無い」ものであるとしたら、私の場合、「みんな」「普通」といったものが、その対象であったと言えると思う。

 そしてその自我が、なんであったのか、どうしてあったのかということについては、私はほんとうに分からないのだ。