現実(1)

 私の参加している「人気ブログランキング」という所で、「注目の投票トピック」というのがある。何が注目なのか、よく分からないが、「週に何回Hしたいですか?」とか「恋人にするなら何人(仏人とか英国人とか)がいいですか?」と、がっかりすることが多い「投票場」だ。

 こないだ、「殺傷能力のある日本製武器輸出を認めることをどう思います?」というのがそこにあった。

 見れば、「岸田政権を支持しますか?」とか「原発処理水の海洋放出に賛成ですか?」といったマジメな感じ?のもある、たまに。

 とりあえず私は「武器の輸出」に反対をポチッとし、コメントを簡単に書いた。「殺人、戦争に協力することになっちまうよ」

 こういうことを書くと、たいてい「現実的でない」とか、「じゃあどうするんだ」とか、やたら「具体案」を示せ、とでもいうような意見が出てくるものだ。

 昔、「朝まで生テレビ」なんかで、たとえば原発に賛成とか反対とか、「派」に分かれてテーブルに座り、何やらギロンをするのを見ていた。

 私の場合、自分がどちらの「派」であるのか。そのテーブルに座る面々を見て、ああ自分はこっちのテーブルにつくな、と判断したものだ。もともと、反対であったが、いざギロンとなると、相手を論破できるほどの理屈を私は持ち合わせていない。相手を言いくるめようとする、その最中に私はむなしくなるだろうし、事実むなしくなる。(何も、今回、反論を受けたわけでない)

 私が反対側に座るのも、特に理由はない。ただ反対だから反対なのだ。しいて言うなら、今まで私が世話になった人が、どう見ても賛成側にいないだろうということ。そのテーブルに座る顔、人、雰囲気のようなものでそれは分かる。

 原発の燃料を運ぶ輸送車の後を追ったこともあるし(私がほんとうに世話になったSさんの運転で)、平和運動家みたいな人ともよく会ったし、私はどうしたところでそっち側の席に着く尻を持たない。友達になれそうにないのだ。

「ならば、どうするんだ、ミサイルが飛んできたら。お前の住む国が攻撃されたら。侵略されたら」

 私は自答する、「そのままにしとくよ」

 野蛮な戦争や殺し合いをするくらいなら、私ゃ、何もしないよ。愛する人は、守ろうとするかもしれない。でもそのために武器は持たない。せいぜい、抱きしめるか、とにかくかばう、かばおうとするかもしれないだけで。

「その野蛮な奴らが世界を征服するかもしれないぞ。それでもいいのか」

 いいですね。そんな人たちに牛耳られる、それだけの世界であるなら、それが人間の世界であったということでしょう。人間は、そういうものであったということでしょう。

 人間は、を考えたいですね。ヒト族は、人類は、かな。そういう人間が蔓延って、この世を制する、世界がつくられるというのなら、それが人間であった、人間の行き着く運命のようなものだったんでしょう。

 そこまで、私、「同化」しようとは思いませんね。これは私です。私以外の人が何を考え、どうしたいのかということは、私には知り得ません。私はただそうしたい、そうするだろうということだけです、言えるのは。