「自分を客観視できる人は少ない」といわれる。
自分を客観視する。
そもそも、自分というものは… 客観と主観、もし分けることができるならば、この二つが常にあるものと考える。
痛みとか、腹が減ったとか、調子がいい、悪い。体調や心持ち(自分の)、これを知る、知っているのは「私」以外誰もいないのであって、これは「私」(主)の感じる、観じるところの自分である。
そして客観というのは、「私」以外のものが「私」を見るところにある「私」が「私」を観じる、ということであろう。
見た目、背格好、ファッション、顔立ち。客観から、私は私に気を使う。ヒゲは剃った方がいいだろうとか、髪もそろそろ切った方が、とか、このジーパンはとかTシャツは、とか、目ヤニはついていないだろうか、とか。
私が私に、客観から気を遣ることは、せいぜいこのていどのことだ。人に会う場合などは、物腰や言い方などに気をつける。
いずれにしても、形である。私が私に気を遣るものは。
だが、たとえば道行く人、通りすがりの人… また誰かと会って話などをする時は、その人の外見だけに気を遣っていない。それよりも、その人の内面、性格とか性質とか、その人をかたちづくるものに、気が行く。
興味、関心だろうか。その人の外面も、もちろん目に入る。だがその「外見」より大切なもの── 私の関心がどうしても内面に行くから、それが大事なものになる── を、その外面から察しているようだ。
これは私に限ったことではないかもしれない。外見から、きっと私も人を判断していると思う。判断するに、外見が一つの要素になっていることは疑わない。
だが私の場合、その外見をつくっているものに、外見以上の興味が行く。もしかしたら、外見にひどくこだわっているのかもしれない。だが自分としては、「それは形である」「形にしかすぎない」としたいのだ。
人を判断する好材料である「形」。だが、そう判断する私は、判断する私自身は、私の「形」が判断しているのではない。私の頭の中や心の中、その人の形を見た、私の眼に入ってきたその人を「判断」しているのは、私の「中」なのだ。
自分に対しては、外面上を気にし、私は外へ出る。だが、その外で、すれ違う人やスーパーのレジの人なんかには、私自身へほど外面を気にしない。
いや気にはするが、それ以上にその人の「感じ」、漠然とした「感じ」が気になる。
銭湯なんかに行けば、べつに外見なんかどうでもいい。みんな素っ裸だ。ただ一緒に湯船に浸かったり洗い場にいる人の、迷惑にならぬよう、気をつける。だから人に全く気を使わぬような、人の気持ちを全く考えないような振る舞いをする者に、よけい腹が立ってしまう。
ここには、ひょっとしたら嫉妬の感情もあるかもしれない。または、思い上がった気持ちが。「自分のできないことをしやがって」「こっちはこんなに気を使ってんだぞ」と…。正しさとか、モラルとか、そんなものも私を動かす、バックボーンになってしまうかもしれない。
客観的に自分を見る、とは、どういうことか。
何やら難しげなことになった。最初に言いたかったことだけ、ここは書いて終わろう。
「外見」だけを、私は人を見る時、見たくない、見ていない。私が見ているのは、… 結局、何がその人をそうさせているのかという、その外見をつくらせるもの、そうさせるもの。
そこに、私の「ほんとう」がある。客観、と呼ぶには無理がありそうにも思えるが、私には、それは客観にみえる。
ほんとうの客観、とでもいうようなものだ。
だから、「自分を客観視できる人は少ない」という時、… 「外見」で自分は客観視できると思う。だが、ほんとうに客観視できる人は少ない、と思う。