A「好きな相手が幸せそうになってくれている時。わたしも、嬉しくなって、幸せみたいだよ」
B「わたしは、好きなことをしてる時。ひとりがいいよ。だって気楽だもん」
── ほうほう。Aさん、あなたは好きな相手がいなくなったら、おしまいだね。Bさん、あなたは今している好きなことに飽きたら、また探さなくちゃいけないね。
モロいものだね。
確かなことは、Aさんは相手の中に、Bさんはひとりの中に、幸せみたいなものを感得しているわけだ。
それ以上に確かなことは、その時間の中に幸せみたいなものを感じているわけだ。
この時間が、確かに確かなものだね。
そしてこの時間は不確かだ。アメーバみたいに変化するね。ぷよぷよした、変幻自在な、そこにある輪郭は判別できても、実体はつかみどころのない、つかみ続けられないもののようだ。
だって変わるのだからね。相手も、自分も。
だが時間は変わらない。流れる、これも変わるということだが、この流れて変わり続けるということは変わらない。
あなた方は、その時間の中で生きているし、この外へ行くことは難しい。この時間を感じられなくなったら、それは死ぬ時だろうからだ。
あなた方も、川のようなもの、川そのものだ。
こんな時あんな時そんな時。そんな時々、時々の中で、時そのものになって生きるがいいよ。
どんな時も、どんなふうにもなる。どんな時も、どうとでもなる。まわりがではない。あなた方自身がだ。そしてまわりも変化する。
そうして様々な時間の変化をあなた方は同様の変化を自身の中に感得して、流れてく。
どんな時間であれ、それはけっこう、幸せなんじゃなかろうか。
忘れてほしくないね。あなた方は、すでに幸せであることを。それを感じることができる時も、できないと思える時も、さしあたって「今ここに生きている」これ自体が、けっこう幸せな土台に立っているということを。
幸せな時間は、その時間の中にいる時、感じるもので、思うものではない。
なるべく何も思わず考えず、感じるままで、いてくださいな。
土台を感じられたら、しめたものだ。