自意識に基づく「私」の印象

 どうも、「まじめ」に見られるらしい。トヨタの工場に最初に勤めた時も、その長から「こいつ、いいカッコしやがって」的に見られていた。

 具体的には、食堂の場所を口で教えてもらう時、「はい、はい」と熱心そうにいちいちうなずく私に(という自意識を私はしていた)、長はイラッとした様子だった。その心には、「まじめぶりやがって」があるように見受けられた。

 食堂への行き方の説明が終わった後、長は、「食堂へはどう行ったらいいですか」と、イラつきを抑えるように、「です・ます」調で私に問いかけた。

 はい、はいと聞いて(しかもニコニコして)いた私は、言われた通りのことを暗誦したように言うと、長はちょっとイラつきが落ち着いたようだった。

 それから、私は私であるように働き続けた。すると、最初は疑心暗鬼ふうだった長の二、三人も、「こいつはホントにまじめなんだな」と確認したようだった。そういうのは、その後の私への対応、接し方みたいなもので分かる。あ、信用された、とでもいうような。要するに、いろんな世間話的なことも仕事中に、和気あいあい的に、長たちとできるようになったりしたことで。

 貯水槽の清掃・工事の仕事をコンビを組んで10年、一緒に働かせて頂いた親方も、最初は私を疑っていた。トヨタの時と同様の反応だった。コイツ、やたら真面目そうだが、大丈夫か、ほんとに、と。

 実際、「はいはい言ってるけど、大丈夫か?」と訊かれたことがある。それまでハイ、ハイと聞いていた私は、それでもハイ、と答えた。

 その後、一緒に働いて、信用してくれたようだった。あの親方は、ほんとうにいい人だった。

 自分としては、こういった自意識を持つだけで、それだけの話といえばそれだけの話だ。

 何をもって「まじめ」というのかも、私にはわからない。自分の言葉でいえば、「まじめそうに見られる」という意識を持っている。あくまで「そう」であって、「まじめ」という、そのわけのわからないそのものではない。

 人から憎まれるとか、敵をつくることもないでしょう、と言われたことがある。

 だが、あるのだ。メチャクチャ意地悪をしてくる上司もいたし、特に介護の仕事では女性上司に明らかに嫌われていた。嫌うために嫌っていた、という上司が二、三人いた。男の上司からももちろん嫌われた。

 もし私が「まじめそうに見られる」のが本当だとしたら、この状況について考えることがある。

 彼(彼女)らは、「まじめだった自分」を押し殺し、そうして生きてきたのではないか。まじめでありたかったけれども、そのままでは、やってこれなかった。自分をねじ曲げて、やってきた。それだのに、なんだコイツは。まるでそのまま、まるで真っ直ぐ生きてきて、真っ直ぐ仕事してるみたいじゃないか。

 そんなふうに、私を見ていたような気がする。かれらの心には、私が(私という存在が)何か許せない、その「何か」が彼らの心に巣食っていたような気がする。

 なんと徳のない、自省しない、思慮のない、ばかな人たちだろうと思った。すみません。

 だが、私はそんな上司に従わねばならない。何を曲げたくなかったのか、私はトットとあんな職場から逃げ出した。以来、ずっと「職場」── 介護の仕事は好きだったと思う、でも全く、働く「仲間」どうしの関係がほんとうにイヤだった、から逃げ出しているままである。

 仕方がないと思う。それなりに、こんな自分でずっと生きてきた、その最後的なものへの覚悟もやんわり持っている。

 仕方がない、仕方がない。だがどこか、ホントウにはあきらめ切れていない。