お寺さん

 今日は、歩いて25分位の所にあるお寺さんへ行く。

 こないだ通った時に(タバコ屋へ行く通り道なのだ)、その壁の掲示板みたいな所に「9月23日、『親子関係について』(だったかな)というようなテーマで、誰かが話す、ということが書かれてあったからだ。

 だいぶ前は、この掲示板にジルベール・ベコーの格言みたいなのが書かれてあって、面白いお寺だなぁ、と気づいてはいた。

 今回は、いい機会かなと思った。「どなたでもご参加下さい、無料」ともあったので、もちろん「無料」に惹かれて行くのだ。

 たいして期待はしていない。お寺というと、ゲンシュクな感じもするから、シャツをジーパンに IN するか否かも、ちょっと迷ったりする。IN した方が、だらしなくないだろうからだ。だが、そんな見た目で、まさか「入場お断り」にはなるまい。するようなお寺なら、二度と近寄らぬ。こちらからお断りする。

 もう、特にそんな、聞きたい話などないのだ。

 でも、何となく、行ってみようと思った。全く、何となく。

 頻尿の不安もあるが。

 お寺というのは、そのナリタチはあまり好きでない。わけのわからぬお経を唱え、お坊さんというのはどこか信じられない面がある。

 お墓は好きである。来週は東京に行って、お墓参りする。父、母、祖母、知らない兄の眠るお墓。これも「何となく」なのだが、行って、花を添えて、墓石に水を掛けたりして、手を合わせると、何か義務のようなものを果たしたような気持ちになる。

 お墓とかお葬式は、生者のためにあるのであって(お葬式は区切り・・・だ)、死者のためではないと思う。

 でも、不思議だ。そこに眠っている、と思うと、その眠っているひとに、心を込めて、何か手を合わせてしまう。

 まわりを見れば、同じように、いろんな家の墓石が建っている…

 ブッダは、赤ん坊を亡くして気の狂ったキサーゴータミーに、「その子を救う方法がある。まだ誰も死んでいない家に生える芥子の木から、芥子の実をもらって来なさい」と言った。

 彼女は、喜び勇んで、芥子の木がある、その実の成る家を訪ね歩いた。

 だが、どこにも、死者の出ていない家はなかった。

 がっかりして、またブッダの元に戻った彼女は、ハッと気づいたそうだ。わたしの赤ん坊だけが死んだのではない。誰もが、誰かの死を抱えて、生きているのだ…

 正気に戻った彼女は、ブッダに帰依した、というような話。いつか、仏典で読んだ。

 そうだ、正気と狂気についても、書きたいことがあった。項を変えて、書いてみよう。