モーパッサン

「生活の沼の中から泥をつかんで、そのまま原稿用紙にぶちまけたような」という比喩は、モーパッサン短編集の訳者、青柳瑞穂さんの言だ。

 十年間、せっせと書いて、さっさと死んでいったモーパッサン。「彼は、自分の芸術について悩むことは、他の作家に比べて少なかったのではないか」というようなことも青柳さんは書かれている。

 書いたことについて、反省しない。自省しない。他の芸術作品と比べない。そんなことをする前に、彼はとにかくセッセと書き続けたのだろう。一度書き始めたら、止まらなくなった面もあっただろう。

 それはとても健康的で、生き生きとして、私はモーパッサンのそんな小説にかなり惹かれた。今も惹かれている。

 だがだが。そのモーパッサンの晩年は、…心痛まずにはいられない。神経症、精神病みたいなものを患い、自殺未遂、発狂、そして狂人病院の中で死んだというのだ。

 ほんとうに、解せない。どうして。なんで、モーパッサン。

「女の一生」で有名になって、社交界でもてはやされたらしいが、その神経症的なものは、以前から抱えていたらしい。それが壮年になってから、顕著に表れ始めたというのだ。

 ニーチェも発狂したといわれる。夏目漱石もイギリス留学中、「漱石は発狂した」という噂が日本で流れたらしい。たしかに漱石、イギリスの生活はそうとうに孤独だったらしい。もともと、そういう要素が、漱石にはあったろう、と私は思う。

 しかし発狂。三島由紀夫はあんな死に方をして、誰も「発狂した」とは言わない。

 もともと、三島はああだった、からかもしれない。つまり、「変わっていない」のだ。

「狂った」「発狂した」と言われる人は、おそらく「変わった」のだ。モーパッサンもニーチェも、おそらく頭脳明晰な人であったであろう。しっかりした態度で、どこにも異常が見られない、堂々とした、闊達な人であったかもしれない。

 それがある日、まわりから見れば、…「違う!」となるのだ。それまでの彼ではない。ここで初めて「異常」となる。

 彼本人からしてみれば、自然といっていい、彼自身のどうしようもない流れであったと思う。だがまわりは、異常と見なすのだ。「今までの彼ではない」が、いちばん大きく思える。

 三島の場合、「狂っている」ような彼自身を、そのまま周知させていたのか。まわりも、ああ三島さんだから、と、その「狂い」を当然のように見ていたのかもしれない。

 ニーチェは、「発狂」といわれるその後、静かに「狂っていた」イメージが私にはある。柔らかい石像のように、ずっとベッドの上にいて、何もしない、何も言葉を発しない、というような。

 私には、いつかも書いたが、ニーチェは狂っていないと思えてならない。彼は、彼の生を生きていたのだと思う…

 しかしモーパッサン。どうしても気になる、好きな作家なので、昨日短編集をぺらぺらめくり、「訳者あとがき」を読んで── そのモーパッサンの晩年を見て、やはりいたたまれない、痛ましい気持ちになった。

 狂気というのは、きっと誰もが抱えている。

 戦国時代なんか、人を殺すのがヨシとされたのだ。そして殺し合う… 狂気以外の何ものでもない。

 それでも、人はほんとに殺し合ったのだ。

 しかしモーパッサン… 悔しいよ。なんで悔しいのか、わからないけど。