子游が言った。
「お教えにより、地藾とは無数の洞穴がたてる音であり、人藾とは笛などの楽器の音であることを知りました。それでは天藾とは何か、お尋ねしたいと思います」
すると、子綦は答えた。
「それはほかでもない。さまざまな異なったものを吹いて、それぞれに特有の音を自己の内から起こさせるもの、それが天藾である。
万物が発するさまざまな音は、万物が自ら選びとったものにほかならない。
とするならば、真の怒号の声を発しているのは、はたして何ものだということになるのであろうか」
── あっけなく終わる(三)。
地藾の説明とする(二)も、心の耳を澄ませばきっと聞こえてくるもので、むしろその方がよろしく、いちいち説明をされない方が… とも思えた。
が、洞穴。この世を一本の木にたとえれば、そこに無数の、たくさんの穴があり、生物はその個々の穴に蠢く、一匹一匹の虫、生命、であるように思える。
人間も、むろん、そうだ。
その姿は各々異なっている。生き方も生活様式も、頭の中から足の先っぽまで、一つとして同じものはない。
「似たもの」「そう思わせるもの」はある。
でもそれはどこまでも「似たもの」であり「そう思わせるもの」だ。
それそのものではない。
自己の内から起こさせるもの。それが、おそらく、それなのだ。それが天藾であるという。そうして、その「自己の内から起こさせるもの」それらの音は、「万物が自ら選び取ったもの」という。
とするならば(そう、荘子はけっして断言しない、仮定を第一前提とする)、選び取られたもの= 自己の内から発せられた声、となる。それは、あたかも自己から発せられた声に聞こえるが、じつは万物(洞穴、木々、枝葉、土、雨、空気、石ころ、この世にあるすべてのもの)が選び取ったものであるという。
自己の内から起こされたもの= 万物によって起こされたもの。
曲解だろうか。でも、ぼくにはそう思える。確かのように、そう思える。内= 外、と。そしてそれそのものは、その「真の声」を発しているものは、はたして何ものであるか、という…。