われわれの人生には限りがあり、しかもわれわれの知の働きには際限がない。
限りある人生を、限りない知識欲に従わせることは、自分の身をあぶなくするだけである。
身をあぶなくしながら、なおも知の要求に従うことは、いよいよ危険きわまることだ。
善を行なうことがあっても、名声に近づくことがあってはならない。
悪を行なうことがあっても、刑罰に近づくことがあってはならない。
督── ほどよき、中生によることをつねに心がけよ。
このようにしてこそ、身を保ち、生をまっとうすることができよう。
このようにしてこそ、親を養い、天寿を終えることができよう。
── がらり、とまでは行かないが、いささか説教臭くなった「養生主篇」。
これは「外篇」に入るべきものを、間違えて「内篇」に入れてしまったのではないか、と森三樹三郎さんは書かれている。
孔子的な匂いもするし、レレレッ、という感じだが、これはこれで僕は好きだ。
「荘子」は変化する。何年から何年の間に書かれたのか知らないが、時代とともに内容も変化していく。
それも、まあ、自然に従って生きるをヨシとして生きた、荘子らしい物語といえば物語だと思う。
老荘思想について鼎談で語っていた、湯川秀樹さんの言葉も思い出す。
「老荘というのは、まじめな日本人には、あまり受け入れられないでしょうね」と言いつつ、「でも思想というのは自由でなきゃいかんと思うんです。老荘思想は、自由ですね」
そう、ほんとにそう思う。読んでいて、何だか大きな気持ちになるのだ。そして笑える。読んでいて、自由になる!… そんな本が、僕には「荘子」だった。