そこで、顔回は言った。
「私には、これ以上どうにもなりません。よい方法をおうかがいしたいものと存じます」
「それでは、ものいみをするがよい。ひとつ説明してみようかな。我が心があると考えるようでは、このものいみをすることは容易ではない。もしこれを容易だと思うものは、必ず天の咎めを受けるだろう」
「お言葉ですが、私の家は貧しくて、酒は一滴も飲まず、刺激のある野菜も口にしないことが、ここ数ヵ月も続いております。これをものいみしていることにならないでしょうか」
「それは祭祀の時のものいみであって、心斎ではないよ」
「では、心斎とはどのようなことをいうのでしょうか」
すると、孔子は答えた。
「まず、お前の心を一つにせよ。耳で聞かずに心で聞け。いや、心で聞かずに、気で聞け。耳は音を聞くだけであり、心は物に応じるだけのものにすぎない。
これに対して、気というものは、みずからは空虚の状態にあって、いっさいのものを受け入れるものである。
道というものは、この空虚にだけ集まってくるものだ。この心の空虚の状態が、ほかならぬ心斎だよ」
── そうかそうか。孔子は、顔回が心を空虚にしていない・空虚でないことを、とがめていたんだな。それでは、顔回がどんなことを考え、述べても、孔子には何も響かないわけだ。
ところで、ものいみ。これは「ある期間、飲食・行いをつつしみ、心身を清めて家にこもること」(学研国語大辞典)。
断食をして、何も為さず、身も心も清めなさい、とでもいうのだろうか。
「心が多方面に向かってばかりでは、お前の心は一つとして無いも同じだよ」とすれば、「まず一とせよ」ということか。
「道というものは、空虚にだけ集まってくるもの」だとしたら、多方面に向かう心も無に等しいのだから、これも虚無にならないか。
ならないのだろうな。多方面に向かうことで、「集まってくる」ものを拒絶している。「受け入れる」ところの虚無ではない。
な~る。
具体的な、荒れた国を治める方法は、書かれていなかった。
起こった戦争を止めることは難しいのと同様に、それはそれは、人間につきつけられた最大の難問であるのかもしれない。
というより、個々人の中で考え続けていくことなのかもしれない。この世界、社会が、個々人から成り立っているとするならば。
この荘子の描く孔子は、まず「受け入れること」の重要を説いている気がする。
現実を受け入れるのはもちろんのこと、また、さらに、何を?
いや、虚無であればよい、ということか。さすれば、集まってくる、と…? あたかも、「道が開ける」ように?