徳充符篇(六)

 哀公あいこうが、孔子にたずねて言った。

えいの国に、哀駘它あいだひという醜男ぶおとこがいる。ところが、彼と一緒に住んだ男どもは、彼を慕って離れることができないし、彼を見た女たちは『ほかの人の妻となるよりも、この人の妾になりたい』と父母にせがむ始末で、その数も何十人という程度にとどまらないという。

 といって、この男は一度も先頭に立って何かを主張するわけではなく、いつも他人に同調ばかりしている。

 むろん他人の死を救ってやれる君主の権力をそなえているわけではなく、他人の腹を満たしてやるだけの財産もない。そのうえ、その醜さは世間中を驚かせるほどである。

 人と調子を合わせるだけで、先頭に立って意見を唱えるわけでもなく、その知識の範囲も国内のことに限られている。それなのに大勢の男女が周囲に集まって来るのは、きっと彼に常人と違ったところがあるからだと思われる。

 そこで私も哀駘它を召しよせて会ってみたところ、はたして天下を驚かせるほどの醜男であった。だが私のそばにおいておいたところ、何ヵ月もたたないうちに、その人となりにひかれる思いがするようになった。

 そして一年たらずのうちに、私は彼をすっかり信用するようになった。ちょうど国に宰相がなかった時なので、彼に国政をまかせることにした。

 ところが彼は、浮かぬ顔つきで、やっと承知したようでもあり、とらえどころのないままに、辞退したようでもある。この名利を超越したありさまを見て、私自身が恥ずかしい思いをするほどであった。

 やっとのことで、彼に国政を押しつけてみたものの、ほどなく私のもとから去って行った。私は心がふさいで、何か大切なものを失ったような思いがし、ともに国を治めて楽しむ友だちをなくした思いがする。いったい彼は、どういう人物なのであろうか」

 ── 他人に同調する… 子どもの頃、友達に同調しようと、無意識にしていた気がする。相手がすばしっこかったら、自分もすばしっこくなろうとし、口早に話す相手には自分も口早になり、のんびりした相手には自分ものんびりした。

 でも子どもって、そういうものなんじゃないかと思う。影響を、とにかく受けるという点で。

 この哀駘它という男は、「同調しよう」として、ほんとうに同調することができる人間だったように見える。そんな同調意識さえなく、それこそ「暖かい春のような心」をもって、人を包容していたのではないか。

 そんな人物が、現実をどうこうする為政になど、そぐうわけがない。

 荘子は政治に背を向けて(否定も肯定もしていない)、いわばマイペースで生きた人だ。大切なことだと思う。マイペース。

 最後の「大切なものを失った思い」は、ほんとうに大切なものを失った、という意味に思える。大切なものはいっぱいあるが、ほんとうに大切なものは、「ほんとうのもの」のように思える。

 しかし同調する哀駘它と、彼に集まってくる人々は、その関係の中に何をみていたのだろう。何も見るものはなかったろう。ただ安心し、ホッとすることができたのだろう。それは、何ともいえぬ、嬉しい空間だったろう。

 それが、きっと「ほんとうのもの」、ほかにはない、そこより他の場所はない「空間」だったように思う。自然に、そうなった空間。場所。人との時間。

 他人は自分を映す鏡という。哀公が「恥ずかしくなった」のも、哀駘它の自然が哀公の心の内を映し出したからだろう。

 しかし哀駘它、どんな人物として描かれるのか。何となく、想像がつく気がするが…。