大宗師篇(六)

 死と生とは、運命によって定められたものである。それはちょうど、夜と朝の規則正しい交替が、自然によって定められているのと同様である。

 このように人間の力ではどうすることもできない天命によって支配されているということは、存在するものすべての真相なのである。

 すべて人間は、自分を生んでくれた形のある天をさえ、これを父として親しみ愛するものである。まして、形のある天よりはるかに卓絶した、形のない天(運命)を愛することができない道理があろうか。

 また人間は、一国の君主をさえ、自分よりすぐれたものとして敬い、身をささげて死ぬことを惜しまないものである。

 まして、君主よりもはるかにすぐれた真実の支配者に、その身をささげることのできない道理があろうか。

 ──「自分のために」には限界がある、という人もある。人のためになって、つまり「役に立って」、初めて心が満たされ、まるで生きててよかった!かのように嬉しくなるという感じ。

 それはそれで、全く異論はないが、三か四にあったように「それは自分の生命を楽しまず、他人の喜びを自分のものにして楽しんでいるだけ」が実情のようにも思える。また、他者の悲喜を自分の悲喜とすることができるという、素敵な心の顕著、とすることもできるだろう。

 今や、君主… 首相とか大統領がその立場であるのだろうが、あれがそんな偉大な存在とは夢にも思えない。それでも、ぼくら「民」は、あれが決めたことに従って生活を、つまりは実際的な生の基盤を、ここから立たせていくしかないということになっている。

 いや、こんなことを書いてもしょうがない。政治によって治められ、また政治によって治められたいとする心情は、常識以前のことであるらしいし、誰かによって決められた道を進むしかなさそうだ。

 そもそも為政、民を治める仕事なんて、人間が、まして特定の人間のできることではないよ。

「荘子」によく出てくるしゅんにしたって、あやしいものだ。すぐれた者は、相対から生まれるし。あの人に比べりゃ、こっちがマシだ、なんてねえ。

 ほんとに人類史、この地球上で紛争戦争のなかった時間、あるんだろうか。

 国のために戦い、自分が死ぬというのに「天皇陛下バンザイ!」と、自分以外のもののために、でないと死ねなかったのかな。恐ろしい、悲しいことだよ。