大宗師篇(七)

 泉の水が枯れて、魚たちが干上がって陸になった所に集まり、たがいに湿った息を吹きかけあい、あぶくで濡らし合っているのは、いじらしいと言えば言えよう。

 だが、それは満々と水をたたえた大江や湖の中で遊び、たがいに相手の存在を忘れるのには及ばない。

 聖王のぎょうをほめて、暴君のけつをそしるのは、仁を不仁との相対差別を認めるものであり、二つとも忘れて差別のない自然の大道と一体になるのには及ばない。

 天地の自然は、自分をのせるために身体を与え、自分を労働させるために生を与え、自分を休息させるために死を与えているのである。

 もし、自分の労役である生をよしとするならば、当然自分の休息である死をよしとすることになるであろう。

 ── この世に差別はない、ということを言いたいがために、荘子は生と死を同列に持ってきたのだろうか。

 こっちが本当、お前は嘘、善悪・正誤を主張し合う諸子百家、知識人たちに愛想を尽かし、ほんとうというもの、真理は一つの道であることをその身に発見した時に、生死をふくむ全てのものが無差別であることも見えたのだろうか。

 自然に遊ぶこと、この世のありとある物から「道」を見ていた荘子には、論理を武装して振りかざす人たちのいる場所から、とうに離れた存在であったのかもしれない。

 言葉で「道」は表せぬとしながら、「道」とし、万物斉動、絶対無差別の思想を打ち出し、これらを言葉にあらわした。

 もしこれらの表現、思想が言語化されなかったら、荘子はただの人、何を考えているのか分からない、どこにでもいるオッサン、または世捨て人のように周囲から見られるだけの存在だっただろうか。

「それも運命だよ」。どこからともなく、そんな声が聞こえる。

 無名であることを身上のようにして生きた荘子は、2000年のちのこの世にも名を有し、文字の中にいて、それを目にしたある種の人たちの心に入り込み、そこで息づく。

 荘子は、何とも思うまい。悲喜の情も忘れ、気持ち良さそうにただ、この空気中に舞っている気がする。

 心も忘れ、あることもあったことも忘れ、といって死んでいるわけではない。そのように生きていた、そのように生きようとして生きた人であるから、かれが生きていようが死んでいようが、同じことのようにみえる。

 荘子の存在。ぼくには、ただその荘子の存在が、ひどく身近に感じられる。