大宗師篇(二)

 どのような人をさして真人というのか。上古の真人は、不幸な運命に見舞われても逆らうことなく、たとえ成功してもこれを誇ることなく、万事を自然にゆだねて、はからいをすることがなかった。

 このような境地に達したものは、たとえ失敗しても後悔することがなく、成功することがあっても得意になることはない。

 また、この境地に達したものは、いかなる高所にのぼっても恐れることがなく、水に入っても濡れることはなく、火に入っても熱さを覚えることがない。

 その知が自然の道をのぼりつめることができれば、このような偉力を発揮するのである。

 上古の真人は、眠る時は眠ることに安んじるために、夢をみることがない。

 その目覚めている時は、日常の営みに安んじるために、憂いをもつことがない。

 食事の時も、特別に何かがうまいと心がひかれることもなく、その呼吸は深く安らかである。

 真人はかかとの先から深く呼吸をするが、凡人はのどの先で呼吸する。

 すべて外物に屈服するものは、たえず圧迫を感じている。そのために、言葉を出す時も、のどにつまってむせ、欲望の深いものは、その心身の機能もあさはかである。

 ── いかに、成功だの失敗だのが、なんと小さなことか。

 心頭滅却すれば、とか、そんな人為も要らない。そのままでよかったのだ、完全であったのだ、既に。

 それを離れてしまう心、というもの、これもまた自然なのだとしても。

 ひとりひとりが、人間のかたちであったからに、樹木の枝や雲、風、時の流れに等しく、それは完全であったのだ。

 すべてを受け容れる、その「全」をみる目を、あたかも人間はもっているかのようだ。

「個」から、「全」がはじまる。