大宗師篇(三)

 上古の真人は、生を喜ぶことを知らないし、死を憎むことも知らない。この世に生まれ出ることを喜ぶでなく、死の世界に入ることを拒むでもない。

 ただゆうぜんとして行き、ゆうぜんとして来るだけである。

 生のはじめである無の世界を忘れることはない。そうかといって、生の終わりである無の世界を求めることもない。

 与えられた生は喜んで受けるが、これを返す時も未練を残すことがない。

 このような態度を「はからいの心をもって自然の道を捨てず、人為をもって自然のはたらきを助長しようとしない」というのである。このような境地にあるものを、真人というのである。

 このような境地にあるものは、その心はいっさいを忘れ、その姿は静寂に満ち、その額は広く平らである。

 秋の陽射しの厳しさがあるかと思えば、春の陽射しの暖かさがあり、その喜怒の情は、ちょうど四季のように、自然のままに移り変わっていく。

 その心は物と調和を保ち、無限のひろさを持つのである。

 ── 荘子における具体的な人物像は、比喩が多いように思える。「平らな額」は水平(是非をしない)であるし、「真人はその姿が静寂に満ちている」は、存在していながら存在していない、心をなくした「不在の存在」であるようだ。

 日常生活、町の中やスーパーの中で、目に見える人間の言動も、何かの比喩のように思える時がある。

 人はそこにいる。ぼくは人と話をしたり、笑い合ったりする。相手もぼくも、確かにそこにいる。だが、それは何かの比喩であって、ぼくらそのものが存在しているというより、比喩として存在しているような気がする時が。

 ぼくらは影のごときもので、実体、本体ではない。仮の姿、仮の言葉、その仮をほんとうと思いたい対象を、ほんとうとしているだけのような…。