斉物論篇(二十六)

 罔両うすかげが影に向かって、問いかけた。

「お前さんは、先ほど動いていたかと思うと、今は止まってじっとしている。

 さっき座っていたかと思うと、今は立っている。

 あんまり節操がなさすぎるではないか」

「なるほど、わしは形につき従い、それが動くままに動いているのかもしれない。

 だが、わしがつき従っている形そのものも、何ものかに従って動いているのではあるまいか。

 わしがつき従う形というのは、へびの腹のうろこせみの羽のように、時の変化のままに従い、明日にも消え去る定めのものではないだろうか。

 自然の変化のままに従っているわしにとっては、なぜそうなるのか、なぜそうならないのか、知ろうとも思わないよ」

 ── 訳者の森三樹三郎さんの解説によれば、「半影は影に従い、影は形に従い、形は時の変化、運命のままに従う。

 万物斉動の境地からみれば、いっさいが相互に依存し、絶対的なものはない。

 ただ最後に残るものは、時の変化であり、運命の流れである」

 … 森ファンであるぼくだが、たぶん同じことかと思うが、時は変化しないと思う。

 変化する「存在」がなければ。「時間」だけでは、と思う。

 いっさいが相互に依存する、ほんとにそうだと思います。

 さらに「万物斉動の理が荘子哲学の出発点であるとすれば、運命への随順は荘子哲学の最後の帰着点である」と森さんは書かれている。

 この「運命随順」、モンテーニュが「エセー」に書いていた思想、モンテーニュの人生への態度だったんだよな…