徳充符篇(三)

 森さんによれば、この徳充符篇における徳とは、いや「荘子」における徳とは、「いっさいの運命をそのままに是認し、すべてを春のような暖かい心で包むことである」とする。

 まず是認。是認、受け入れること。

 でも、その是認の前、是認するからには、その前に否定がある。受け入れ難い、とするものがある。

 是認は非からうまれる。非なしに、是はない。

 非をなくすことは人為だ。だが、否定することは「我」のはじめ、自と他を分ける、あの「我」のめばえ、「私が私である」とするはじまりだ。意識── 自分と違う他人を見て、接し、「違う」とするはじまりだ。

 そこにとどまっていては、非は非のままである。非を非として臭いものにフタ、見て見ぬふり、ごまかし、欺瞞、それらのことを、無意識のうちにでもして、生活、人生、即ち生はやっていけるだろうが、そこから是がうまれるとは思えない。

 非と是は、双子星のようにも見えるが、一卵性双生児ではない。非とするところから自我がはじまり、自我であるところから是がはじまるからだ。

「存在と時間」という言葉が、宇宙みたいに、頭の向こうをかすめる。が、まあ、とにかく、続けよう。

 申徒嘉しんとかは、足切りの刑を受けた不具者である。そして鄭国ていこくの宰相の子産しさんとともに伯昏無人はくこんぶじんを師としていた。子産は刑余の人と同行するのを嫌い、申徒嘉に向かって言った。

「私が先に出た時には、きみはあとに残っていてくれ。きみが先に出た時には、私はあとに残っていよう」

 あくる日、二人はまた同じ堂の上で同席した。子産は、重ねて申徒嘉に告げた。

「私が先に出たら、きみはあとに残ってくれ。きみが先に出たら、私はあとに残ろう。今私は外に出ようと思うが、きみはあとに残ってくれるか。どうかね。

 大体きみは一国の執政の私を見ても、敬意を表して避けようとしないが、きみは執政と同等だとでも思っているのかね」

 すると、申徒嘉は答えた。

「いったい、先生の門下で、あなたの言われるような執政などがあるのだろうか。あなたは自分が執政であることを鼻にかけて、人を尻目に見ようとなさる。

 だが私の聞いている言葉に、こういうのがある。『鏡が錆びないで光っていれば、塵埃ちりはつかない。塵埃がつくようでは、その鏡が錆びている証拠である。久しく賢人とともに暮らせば、あやまちをしないようになる』と。

 今、あなたが大道を学び取ろうとしているのは、ほかならなぬ先生からではないか。それなのに、このようなことを口にされるのは、賢人を師としているくせに、あやまちをおかすことではないか」