逍遥遊篇(四)

 小さな知恵は、大きな知恵に及ぶことはできず、短い寿命のものは、長い寿命のものに及ぶことはできない。

 その隔たりはきわめて大きい。何によってこれを知るか。

 朝のあいだの命しか持たないきのこは、朝を知っても昼を知らず、コゼミは春を知っても秋を知らない。これが短命なものの例である。ところが楚の南には冥霊めいれいとよばれる大木があり、五百年間を春とし、五百年間を秋とする。

 また上古には大椿だいちんとよばれる木があり、八千年間を春とし、八千年間を秋としたという。

 ところが今の世では、彭祖ほうそという人間が長寿だというので大きな評判になり、人々がこれにあやかりたいと願っているのは、あわれというほかないではないか。

 ── 大きいなあ。まったく、あわれだね。何ということだろう、何というか、うん、あわれだ。

 いかに人間が小さいか… いや、人間の尺度がせせこましく、小さなものか。

 人間だからといって、人間しか見なければ、そこらの虫コロと同じじゃないか。

 いや、虫のほうが、よっぽど潔く、人間様より潔く生きている気がするよ。

 死にたいとか、死にたくないとか、そんなことより、ただあるがままに、あるがままに、そのままに。きれいに、生きてる気がするよ。

(引用、「世界の名著」4 老子荘子、森三樹三郎訳)