大宗師篇(一)

 森さんによれば、「荘子の『道』の内容は、自然であり、運命」であるという。この篇はその思想を最もよく表したもので、「斉物論篇」と並んで重要な篇である、と。

 自然のままに生きること、自然に身をまかせて生きること── そう言われると気が楽になるが、実際にそのように生きることはほんとうに難しい。が、心というものは、自由であるということも、ほんとうのことだと思う。

 考え方、ものの見方一つで、人生みたいなものの景色は変わるし、自分の歩み方に荘子はぜひ取り入れたいものだ。その世界は穏やかで、およそ平和的なものだと思う。意味のない戦争やら殺人やら、わけのわからない今に、この思想があの大鵬のように飛び立って、空を覆ってくれないかと願いたい気持ちになる。

 情緒不安定な書き方を続けてきたが、この最後の篇、はじめよう。

 天が営む自然のはたらきを知り、人間の営みの正しいありかたを知ることができれば、人知の最高の境地に達したと言えよう。

 天が営む自然のはたらきを知るとは、人知の及ぶ限界を守ることによって、人知の及ばない自然の大きなはたらきを養うことである。

 このような態度で人生を送れば、天から与えられた寿命を完全に終え、途中で若死にすることはないが、それはこのすぐれた知のはたらきによるのである。

 とは言っても、このようにすぐれた知にも、なお欠陥がある。知というものは、その知の対象となるものが存在してこそ、はじめて妥当するのであるが、その対象となるものは決して一定することがなく、たえず変化するからである。

 だから、自分では、これが天だ、自然だと思っていることが案外に人為であったり、逆にこれが人為だと思っていることが、自然であったりするものである。

 とするならば、やはり真人しんじんの境地に達したものだけが、真の知恵をもつことができると言えよう。

 ── 今までも、何回となく見てきた内容。若死にについて書かれている。これではまるで、老衰まで生きるのが天寿、寿命のまっとうであるかのようだが、自然に逆らって生きた者はそうなるという例え話、一つの例として挙げているのだとぼくは思う。

 事故であれ戦死であれ自殺であれ、それはその人の運命であったと考えたい。それはその人以外の者、殊に親近者にとっては耐え難いものだが、そのほんとうの理由は「知の及ばないもの」「ほんとうの原因は知るよしもないもの」と捉えたい。死者は、「なぜ自分がこうなったのか」わからぬまま死んでいくのだと思う。ことに、自殺は。

〈 自殺者は、自分の頭に飛び込んで自殺する 〉〈 自殺は、人間に残された最後の自由ではないか 〉賢いひとが、どんなに理由をつけようが、当人にとってはその時の最大限の、精一杯の、これ以外にどうしようもない選択であり、決断であったのだ。ぼくは、自死を選んだその人を、その人自身の精一杯の選択を、断じて否定したくない。尊重したい。あらん限りの力をもって包容したい。

「知は、その対象をもって初めて存在する」は、あのブッダの「心」のありかたと同じことをいっている。その対象は一定することがない。だから心も、知も、一定することはない。知、心は、むしろその対象を探す。うつつに、その対象がありすぎるほどにありもする。

 身体、この身体というものが、個人、ひとりの人間にとっての最も重大な「物」であり、当人にとって最も近しい「存在」である。それは、他者の決定的な介入を許さない。それほどに、密接な関係であろう。その存在が衰え、病になったら、今度は心が病み、まして寝たきりになったら周囲に迷惑がかかる、そんな意識も働いてしまうだろう。

 悔しいのは、他の誰でもない。以前のようにもう動けない、それが何ヵ月も続き、まして原因不明であったなら、絶望以外に何が残るだろう? ぼくは、その人の自死を絶対に否定しない。尊重したい、としか言いようがない。

「真の知恵」というからには、── 虚でも実でもない、真であろう。が、その真とは? 自然に生きる、自然に沿って、そのままに自身を添え生きる、絶対的なもの、どうしようもないものがあるとしたら、それと調和するようにして生きる。

 自分の力ではどうしようもないもの。それは自分の限界を越えたものなのか。だとしたら、その限界をつくるのは、その心の内にあるものなのか。それとも、ほんとうに自分の外にあり、この力の全く及びもしない、絶対的といえるほどに絶対なものであるのか。おなじ、何かそれは、同一のものにみえる。

 荘子のいう「真人」、真の人とは、真に生きた人というより、生きる死ぬとに関わりなく、関わらず、ただ「ある」人、「あった」人、そこに、ここに、ある、あった人── をさすのではないかとおもう。それはあたかも、まるで己が自然であるかのように。そこに、ただ存在するもののように。

 が、主観も客観もない。真は、ただひとり、ポツンと、そこにあるだけである。そこにあり、ここにあるのは事実だとして、でも、しかしそんな事実は、真の前には全く無意味に等しい、意味の為さないものにみえる。

 そこに何かを見い出そう、意味をつけようなどとすることこそ人為であって、真から人を遠ざける、最も忌むべき、愚かな、といっていいほどのおこないとおもう。

 死に対して、己のために、理由など探りたくない。のこされた人、ぼくなんかよりよほど身近にいたひとと、この時間を、いっしょに生きていくだけだと思う。

 池田晶子の言を借りるまでもなく、死の原因は、生まれたことにあるのだ。あらゆる死因も、真のものではない。

 ならば、生きる理由も、真のものはない。

 真のものは、そんなものではない。生も死も、そのところ、このところには、ないものだ。それに対して、ぼくは怒りを覚えた。そのひとの死にでなく。人間であるところのもの、人間を人間とするもの、世界、これを動かす、目に見えぬもの、それに対して、いいようもない怒りを覚えた。