徳充符篇(八)

 闉跂支離無賑いんきしりむしんという、がにまたで、せむしで、三ツ口の不具者が、えいの霊公に道を説いたことがあった。霊公はその説に感心したが、それからというものは、五体満足な男を見ると、首が細くて貧弱に見えるようになった。

 また甕盎大癭おうおうだいえんという、大きなこぶだらけの男が、斉の桓公かんこうに道を説いたことがあった。桓公はその説に感服したが、それからというものは、まともな人間を見ると、やはり首が細くて貧弱に見えるようになったという。

 このように、その人間の徳がすぐれていれば、その外形などは忘れてしまうことがあるものである。もし、これとは逆に、忘れてよいことを忘れず、忘れてはならないことを忘れるようなものがあれば、これこそ真の忘却というのである。

 だから聖人はいっさいの忘れるべきことを忘れて、自由の世界に遊ぶのである。知恵を不必要なひこばえのように見なし、身をしめくくる礼儀については自由を奪うにかわと見なし、恩愛を人と人とを結びつける絆と見なし、生活に役立つ工業を無用の商業に等しいものと見なすのである。

 聖人は、はからいごとをしないのであるから、知恵を必要とすることがない。人間の品性を削り落とすことがないのであるから、それをくっつける役目をする礼儀の膠を必要とすることがない。

 人心を失うことがないのであるから、恩愛の絆で結びつける必要もない。物を売買することがないのであるから、商業を必要とするはずもない。

 この四つのもの、知、約、徳、工は、天が人間を養うために、自然に与えてくれるものである。天が人間を養うために与えてくれるもの、それはいわば天然の食物のようなものである。

 天から自然に食物を与えられているとすれば、わざわざそれを捜し求める人為は不必要ではないか。

 聖人は、人間の形をそなえてはいるものの、人間のような欲情はもたない。人間の形をそなえているために、その身は人間の世界の中にあって生活をする。だが、人間なみの欲情をもつことがないから、是非善悪の対立によって身をわずらわされることがない。

 その人間に属すという点だけから見れば、聖人もまた卑小な存在にすぎない。だが、自然のままを完成しているという点から見れば、それは限りなく偉大な存在である。

 ── うーん、ちょっと分からない箇所もあるけど、この文章、荘子という師(?)を、このように見ていた弟子(荘子学派)の感懐…かな。

 欲情が善悪の対立をつくるのかしら。我欲、と違うのかな。同じか。

 内なる自然と、外にある自然。外にある自然? この自然が運命と同義語であるとしたら、この運命と内なる自然を調和することがヨシ、であるはず。

 しかし、そも、内と外、「分ける」必要、あるんだろうか。必要というか、「分け」ないと、どうもうまく行かない。

 いや、こんな聖人になるのはムリだよ。具体的に表現されているけど、ムリムリ。

 人間の形をしているならば、その臓器や性器がその役割を果たそうとして、はたらき始めるものだろう。いくら聖人、「人間なみの欲情を持つことがない」なんて言ったって、そりゃ持つだろうよ。

 この聖人は、ちょっといただけない。美化、捏造しすぎて、せっかくの具体例が現実離れしてしまう。だから「聖」なんだとしても、これはちょっとイキスギだよ。