養生主篇(一)

 われわれの人生には限りがあり、しかもわれわれの知の働きには際限がない。

 限りある人生を、限りない知識欲に従わせることは、自分の身をあぶなくするだけである。

 身をあぶなくしながら、なおも知の要求に従うことは、いよいよ危険きわまることだ。

 善を行なうことがあっても、名声に近づくことがあってはならない。

 悪を行なうことがあっても、刑罰に近づくことがあってはならない。

 とく── ほどよき、中生によることをつねに心がけよ。

 このようにしてこそ、身を保ち、生をまっとうすることができよう。

 このようにしてこそ、親を養い、天寿を終えることができよう。

 ── がらり、とまでは行かないが、いささか説教臭くなった「養生主篇」。

 これは「外篇」に入るべきものを、間違えて「内篇」に入れてしまったのではないか、と森三樹三郎さんは書かれている。

 孔子的な匂いもするし、レレレッ、という感じだが、これはこれで僕は好きだ。

「荘子」は変化する。何年から何年の間に書かれたのか知らないが、時代とともに内容も変化していく。

 それも、まあ、自然に従って生きるをヨシとして生きた、荘子らしい物語といえば物語だと思う。

 老荘思想について鼎談で語っていた、湯川秀樹さんの言葉も思い出す。

「老荘というのは、まじめな日本人には、あまり受け入れられないでしょうね」と言いつつ、「でも思想というのは自由でなきゃいかんと思うんです。老荘思想は、自由ですね」

 そう、ほんとにそう思う。読んでいて、何だか大きな気持ちになるのだ。そして笑える。読んでいて、自由になる!… そんな本が、僕には「荘子」だった。