大宗師篇(十四)

 そこで、子貢しこうは尋ねた。「それでは、先生は世俗の内と外と、いずれの道によられるのでしょうか」

 孔子は答えた。

「私は天の刑罰を受けた人間であり、世俗の内につながれている。だが、私もお前とともに、なんとか世俗の外に出たいものだ」

「世俗の外に出る方法があれば、うけまわりたいと思います」

「魚は水のあるところに至りつくことが必要であり、人は道のあるところに至りつくことが必要である。水にありつくためには、池を掘って水をためればよく、それだけで生きるのは充分だ。

 道に至りつくためには、無為自然を守ればよく、それで安らかに生きることができる。だからこそ、『魚は満々と水をたたえた大江おおかわや湖の中におれば、たがいの存在を忘れ、人は自然のうちにあれば、いっさいの存在を忘れる』という言葉もあるのだ」

 そこで子貢は、少し話題を変えた。「奇人── 風変わりな人間というのは、どのような人間をいうのでしょうか」

「奇人というのは、ふつうの人間とは違っているが、天と等しい人間、つまり自然のままの人間のことである。だから、『天にとっての小人は、人の世では君子と言われ、人の世で君子と呼ばれる者は、天にとっては小人にすぎない』という言葉もあるのだ」

 ── うん、これはあまりピンと来ない。

 無為自然であればいいことは、もう十分わかった。これほど難しいことはないことも。

 でも、それを意識するだけで、ずいぶんと生き易くなったというか、気軽になれるというか、そんな感じも確かにある。

 奇人のことについては… 奇をてらうような人間が増えたとは思う、現代。

 たぶん孔子の言う「奇人」は先天的な何かをもった人をいうのだろうけれど、今や「わざと奇人になる人」がやたら目立つよ。本物じゃない、わざとらしさばかりが目立つ。本物か偽物もどうでもいい、面白ければそれでいい。それだけの時代のような気がするよ。

 本の内容も軽くなったし、何もかもが軽くなった感じがする。たとえばよく考えてプレイする元野球選手やサッカー選手が何か発言すれば、その記事を見て「哲学的」とか「深い」とかコメントが寄せられる。

 その元選手にとってはごく普通に考えていることで、哲学でも深さでも何でもないだろうに、と思うよ。まわりに迎合して生きている人が多くて、自分で自分のことをほんとに考えている選手の発言が、「哲学的」に聞こえちゃうのかもしれない。

 そういう人ばかりではないと思うけど、スナック菓子みたいに歯ごたえのない時代に生きてる気がするよ。

 世俗の内も外も、判別がつかない。どっちかに重心をおいて足を踏みしめられれば、まだ何か稜線のようなものが見えてくるのに、雲の中を歩くように生きてる人が多いような… いや、きっと気のせいだ。