大宗師篇(十一)

 子祀しし子輿しよ子犂しり子来しらいの四人が、あるとき語り合った。

「だれか無を頭とし、生を背とし、死を尻とすることができるものはないだろうか。死と生、存と亡とが一体であることをさとるものはないだろうか。もしあれば、友だちになりたいものだ」

 そう言って四人はたがいに顔を見合わせて、にっこりと笑い、心からうちとけて、そのまま親友になった。

 ところが突然、子輿が病気になった。子祀が見舞いに行くと、子輿はこう言った。

「造物者というのは偉大なものだな。わしをこんな曲がりくねった身体にしてしまったよ」

 なるほど、背はひどいせむしになり、五臓は頭の上にきており、あごは垂れ下がってへそをかくし、両肩は頭のてっぺんよりも高く、もとどりは天をさす、というありさまであった。

 このように身体のうちにある陰陽の気は乱れているものの、子輿の心はのんびりして平静そのものであった。よろめきながら井戸端に行き、水に姿を映して、つぶやいた。

「うん、造物者のやつは、よくもここまでわしの身体をひん曲げてしまったものだわい」

 これを見た子祀が言った。「お前さんだって、こんなせむしになるのはいやだろう」

 すると、子輿は答えた。

「いやいや、わしはいやだとは思わないよ。もし造化の働きがだんだんに広がって、わしの左のひじにわとりに化けさせたなら、ひとつ鶏になって時を告げてみようではないか。

 またもし造化の働きが次第に広がって、わしの右の肘をはじき弓に化けさせたなら、ひとつそれに乗ってみようではないか。

 また造化の働きが次第に広がって、わしの尻を車輪に化けさせ、わしの心を馬に化けさせたなら、ひとつそれに乗ってみようではないか。馬車の世話にならなくて済むよ。

 それに、人間がこの世に生を得るというのは、生まれるべき時にめぐりあったまでのことであり、その生を失って死んでゆくのは、死すべき運命に従うまでのことだ。

 めぐりあった時のままに安んじて逆らわず、与えられた運命のままに従っていれば、哀楽の情が入り込む余地はない。

 このような境地を、昔の人は県解けんかい── 生死の束縛からの解放と呼んでいた。それにもかかわらず、なおこの束縛から解放されないとすれば、その心に外界の物が結びついているからだ。

 だが、その物も、天命に勝つことはできず、やがては消え去ってゆくのが昔からの定めである。その束縛は必ず解ける時がくるのだから、わしは運命を憎んだりはしないつもりだ」

 ── 大好きな一篇だ。この四人の、仲間になりたい。友だちになりたい。

 無を頭とし、生を背とし、死を尻とする… 一体の、何か造形物、肖像画…、ひとつの生き物が浮かぶ。

 バケモノのようでもあるけれど、それは鳥のようでもある。一ツ目が、うつむいてこっちを見ている、遺跡のような、石に掘られた姿、壁画、表象画、象形画のようだ。

 それは動く。変化する。時とともに、一向に同一、同じであることがない。静止しているが、動くことをやめることがない。

 心、変化、時間、まわる… 何とでも言うがいい、これはきっと我々であり、生命体、ひとつひとつの生命体、そのうちのたったひとつの、あらわれにすぎないんだから。