堯帝は、天下を許由に譲り渡そうとして告げた。
「月日が出ているのに、かがり火を燃やし続けてやめないのは、明るくするために、無駄な骨折りをすることではあるまいか。
ほどよい雨が降っているのに、田畑に水をやり続けるのは、地を潤すために、要らぬ苦労をすることではないか。
先生のような人物が天下の位に立たれたならば、天下はすぐに治まるのに、私がいつまでも天下の主になっているのは、われながら飽き足らぬ思いがする。どうか、天下をお受け取り願いたい」
すると、許由が答えた。
「あなたが天下を治められて、現に天下は立派に治まっているではないか。それなのに、私があなたに代わるというのは、何のためだろうか。
もし私が名のために天子になるとしよう。名というものは、実に対する添物にすぎない。あなたは私に添物になれとでも言われるつもりなのか。
ミソサザイは深林に巣をつくっているが、とまる分には、一本の枝があれば充分だし、ムグラモチは大河に水を飲みに出かけても、腹いっぱい以上に飲もうとしない。
まあ、あなたも帰ってお休みになるといい。私には、天下などというものに用事はない。いくら料理番が料理をしないからといって、神主が神酒の樽や供物台を踏み越えてまで、おせっかいな代役をつとめに行くこともあるまい」
── いささか退屈な文面に感じられる。が、無為自然。この思想の入り口にいる堯帝の「あなたこそ天下を」という提案を、許由は突っぱねる。「何だかんだ、天下は治まっているではないか。私はイヤだよ、名声なんか欲しくもないし」とばかりに。
「足るを知る」も、描かれている。ミソサザイとムグラモチを例に出して。
まあ、帰って、あなたも休みなさいな。… こんなのんびりさ(やさしさ?)が、いいんだよなあ。
いや、これが堯帝の、最上のアドバイスかもしれない。「あなたが休んでいても、天下は治まるよ」という。
荘子には全く、「自然」に対する絶大な信頼がある。無為でいいんだよ、という…。