応帝王篇(一)

 齧缺げっけつは、その師の王倪おうげいに質問したところ、王倪は四つの問いに対して、四度とも「知らない」という答をした。

 齧缺は、それを物の差別を知らないという意味であることを悟り、これは大変な真理を教えられたと、躍り上がって喜び、さっそく蒲衣子ほいしのところへ行って報告した。

 すると、蒲衣子は言った。

「なんだ、差別をしないという真理を、お前は今になってやっと知ったのか。世に聖王と呼ばれるしゅんも、太古の帝王の泰氏たいしには、はるかに及びもつかないのだ。

 というのも、舜はその心に仁義を抱き、それによって人をなつかせるという政治をしたからだ。

 なるほど、それによって人心を得たものの、人の是非を区別するという境地から出ることができなかった。

 ところが泰氏は、その眠る時は安らかに眠り、目ざめる時は目を見ひらくばかりで、ものを思うことがない。

 自分が人間であることさえ忘れ、あるときは自分が馬であるかと思い、あるときは牛ではないかと思いまどう始末である。

 それゆえにこそ、泰氏の知は真実をつかみ、その徳は天真そのものである。

 だから舜のように、人の是非を区別するという境地に陥ることがなかったのだ」

 ── 基本は、遊びだろうか。どんなに真剣に、まじめに何かを考えたところで、それが永続するわけでない。ただそういう「時があった」ということである。

 そしてその「時」を思い出したらば、そのとき、「あの時」に戻る、帰ったような気になって、そこで遊ぶのだ。遊びの基本は、ひとり遊びであるともいう。

 また、妙にまじめであることも、恐いことだ。血まなこになって、一心に何かに真剣に向かう。それはあたかも一生懸命にみえるが、その姿が永遠に続くことはない。「そういう時があった」ということになる。

 そも、むりなのだ。それをまるで永遠、真実、本当、偽りでないことにする、しようとすることに、むりがある。それは、ほんとうではない。

 変化するものは、真でない、などと、誰が言った。真にこだわることが、真でない証しではないか。真なんて、そんな力まなくても、あるものだし、すでにあったところのものだ。

 真のものは人一人一人の中にあるし、そうして変化を続けて、やがて結局、一に還る。
 それまでの束の間の生、ということだろう。そして死など、束の間にも及ばない一瞬だろう。