養生主篇(三)

 公文軒こうぶんけん右師うしを見て驚いて言った。

「これはまた、どうしたことなのだ。一体、誰に足を切られたりされたのかね。天命によってされたのか。それとも誰か人間がやったのか」

 すると、右師は答えた。

「天命で、こうなったのだよ。人間がやったわけではない。天がわしを生んだ時に、一本足になる運命をくれたのだ。

 大体、人間の顔かたちというものは、すべて天から授かったものだ。このことから考えても、わしの足がなくなったのは、天命によるものであり、人間のせいでないことが分かるではないか」

 ── そうそう、こういうことなんだよ。

 誰のせいでこうなったとか、あいつのせいだとかこいつが悪いとか、そんなもんじゃない。

 後悔も同様で、あの時こうしていればとか、ああしていたらとか、そういうものじゃない。

 何のせいでもない。何が悪かったわけでもない。この世の事象、目に見える者、物は、パペットみたいな操り人形だよ。

 それを動かすものは、あたかも自分の意思で動いているように見えるが、よくよく見れば一貫した一定の路線、大きく曲がりくねっていてもその軌道から外れたことのない、天体をまわる衛星のようにも見える。

 あいつを恨む、こいつを憎む。小衛星と自分としては、なんでこいつはこういう人間になったんだろう、どうしてこうなったんだろう、何がそうさせたんだろうと思う。

 何かイヤなことでもされたら、そいつを憎む。でもなぜ自分に対してこいつはそういう所作をするのか、なぜそんなことを言うのか、そうさせる、言わせるものを憎む。

 誰かが自殺したとする。でもそれはそのひと「個」の問題ではない。そのひとが人間であれば、人間のことを思う。そのひと限定に起こったこと、とは、到底思えない。そのとき僕は、人間というもの、そうさせるもの、その人間存在、何か全的な、やたらでかく、正体不明のものであるが、そいつ、けっして目に見えぬ、そいつに対して怒りを抱く。どうしようもなく怒りを抱く。