真の大道には、名づけるべき言葉がなく、真の偉大な弁舌は、無言のままのものである。
真の大仁は、仁を現わさず、真に行ないの正しいものは謙遜の徳を示さず、大勇のあるものは人を害することがない。
道もあからさまになれば、道としての本質を失い、言葉を弁じ立てれば、真実に達することができない。
仁も、絶え間なく続けば、真の仁とはならず、行ないの正しさも程度を越すと、偽善となる。
勇も、人を害するほどになれば、真の勇ではなくなる。
この五つの弊害は、より完全にしようとして招いた逆効果であり、ちょうど円を描こうとして四角に近づいてゆくようなものである。
だから人間の知恵というものも、これ以上は知ることができないという限界のところでとどまって、はじめて最高の知恵となる。
はたして、言葉として現われない言葉、道としてとらえられない道を知る人間があるであろうか。
もしこのような人間が存在するとすれば、その境地は、天府── 自然の宝庫とよぶにふさわしい。
そこでは、いくら注ぎ込んでも満ち溢れるおそれがなく、いくら酌み出しても尽きることがない。
しかも、それがどこから湧き出るのか、その源を知るよしもない。
この境地は,葆光── 包まれた光と呼ぶにふさわしいものである。
── ホッとする。気持ちが、落ち着くよ。微笑める。
限界があるのは、すばらしいことだな。
限界を知れる── 素敵なことだ。
嬉しさも、悲しみも、わけのわからない泉… この身体、その、ここにある、わけのわからないものから、自然にこぼれたり、波打ったりする。
いつもは、まるで動かず、平らで静かな水面に見える。
それが、ひどい出来事、予想だにしていなかった、突然のことに触れると、まったく動揺して、それがあまりに悲しいことであれば、泣くばかりになる。
どう、しようもないことだった。
あの世に旅立った人がいれば、この世に残された者がいる。
でも、一緒に生きている気もする。いや、生きていると思う。
一緒に、生きていると思う。
いや、こんな、そんな言葉にしなくていいんだ。
一緒に、生きてんだ。
生きてんだよ。生きてんだ。