斉物論篇(十八)

 真の大道には、名づけるべき言葉がなく、真の偉大な弁舌は、無言のままのものである。

 真の大仁は、仁を現わさず、真に行ないの正しいものは謙遜けんそんの徳を示さず、大勇のあるものは人を害することがない。

 道もあからさまになれば、道としての本質を失い、言葉を弁じ立てれば、真実に達することができない。

 仁も、絶え間なく続けば、真の仁とはならず、行ないの正しさも程度を越すと、偽善となる。

 勇も、人を害するほどになれば、真の勇ではなくなる。

 この五つの弊害は、より完全にしようとして招いた逆効果であり、ちょうど円を描こうとして四角に近づいてゆくようなものである。

 だから人間の知恵というものも、これ以上は知ることができないという限界のところでとどまって、はじめて最高の知恵となる。

 はたして、言葉として現われない言葉、道としてとらえられない道を知る人間があるであろうか。

 もしこのような人間が存在するとすれば、その境地は、天府てんぷ── 自然の宝庫とよぶにふさわしい。

 そこでは、いくら注ぎ込んでも満ち溢れるおそれがなく、いくらみ出しても尽きることがない。

 しかも、それがどこから湧き出るのか、その源を知るよしもない。

 この境地は,葆光ほうこう── 包まれた光と呼ぶにふさわしいものである。

 ── ホッとする。気持ちが、落ち着くよ。微笑める。

 限界があるのは、すばらしいことだな。

 限界を知れる── 素敵なことだ。

 嬉しさも、悲しみも、わけのわからない泉… この身体、その、ここにある、わけのわからないものから、自然にこぼれたり、波打ったりする。

 いつもは、まるで動かず、平らで静かな水面に見える。

 それが、ひどい出来事、予想だにしていなかった、突然のことに触れると、まったく動揺して、それがあまりに悲しいことであれば、泣くばかりになる。

 どう、しようもないことだった。

 あの世に旅立った人がいれば、この世に残された者がいる。

 でも、一緒に生きている気もする。いや、生きていると思う。

 一緒に、生きていると思う。

 いや、こんな、そんな言葉にしなくていいんだ。

 一緒に、生きてんだ。

 生きてんだよ。生きてんだ。