自分と似ている存在と、距離を置きたいとする心情は、何がそうさせるのか?
前述した哲学者(「考える人」)と、私が私であると意識する、その発露でありきっかけである書き方。
私は独りである。独りであるから、不特定多数に向かい、このネットで情報の一つと化し、「私」というものを開示し、あなたはどうですかと問いかける。
独りであるからできたことだ。独りという意識から、多数があるとした。してみれば、私に、その考えるところの私が「独りでない」とするなら、こんな開示、事実はこうでした、私はこう思います、といったようなことなど、全く書く必要などなかったのである。
自明のことなど、書く必要はない。わからないから、書くのである。かの哲学者、考える人も、全く同じことをいっている… すると私は何も書けなくなる、その時点において。私は独りでなくなったからだ。
わからないから考える。答のない、答がないからこそ考えるのだ── 考える人はいう。
考えながら書くこと。小説のようにプロットなどない。結末はない。何も結論に向かって書いているわけでない。このような書き方さえ似ているとなれば、いよいよ困る。なぜ困るのか? 「私は、私という存在は、独りでいい。それなのに!」という心情の現われではないかと思われる。
これは全くおかしな心性で、「独りでは淋しい。共感者求ム」ところから「私」を開示し、そのために書いてきたふしもあるのだ。であるなら、その求めていた相手、共感者(社会に対して物申すのであれば共闘者)と、その著書を通じてせっかく巡り逢えたというのに、その「つきあい」を拒むことはないはずなのだ。
「自分は独りでいい」と、どこかで必ず思っていた、思っているのではないか。
まったくおかしな心性だ。独りは淋しい、独りであることから逃避したい、この消極、やるせなさが発端、「ものを書いて開示する」原動の一端で確かにあったろうにも関わらず、その相手が現れたら拒否をする!
この心性について── ほら、こんな「具体例」事実、この場合、私に限った事実だが── を書いて、いよいよほんとうにいいたいこと、考えたいこと、メイン・テーマへと移っていくという書き方を私はしてきたのだ。
さて、こうして「なぜこうなるのか」「何がそうさせるのか」に立ち返っていくことになる。ところが、立ち返るまでに迂回を要する。そのテーマそのものへ一直線には向かえない。というのも、答がないからだ。
おぼろげに、その答の影は見える。だが実体をつかむには至らない。影は影であって、実体ではない。この世の事象はすべて影であるかのようにさえ見える。本体は、そこにはないのだ。
そしてこの世、この世があることを思う。この世をつくるもののことを思う。社会、世界。人がいることを思う。
人を意識する。
私も、人であると思う。
私は、独りである。
だが、人である。
独りであるという意識は、私が私である(あった)という意識から始まっている。
それは私でない、いわば外── 私以外のまわりの存在から、私は私である、ということになった、私が私であることを知れた、ということになったのだ。
そしてそのまわりから、私はさらにまた感化され、感化されていく。
私が私であるのは、私だけの意識であり、内的に留まるものである。これを越えることはできない。何ものも、私であるところの私を、私以外に意識するものはない。
ところが、そのないものによって、しかしあるという、確実にある外的存在、事象、それによってこの「私」という意識がつくられた、すなわち私がある、私は私であったという意識から私は私を自覚する。
こうして謎だらけの言葉が羅列された。
あらためて確認── 考える人は「認識」という言葉を使うかもしれないが── してみよう。
考えながら書くこと、あの影、その正体を追求する者は「知を求める、知を探求する化物、知ることを何より至上とする」三度のメシよりそれを愛する者である、というようなことを考える人はいっていたが、私もその一員だ。朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり。本気でそう思う。
影は明らかに見えている。あからさまなほどだ。それなのに実体がつかめない。だが、影は見えているのだ。私はその正体を追う。その影を踏む。