ソクラテスは対話の前に必ず確認をした。「あなたはどんな仕事をし、どんな生活をしているのか?」
ブッダの対機説法は相手がどんな状況で苦しんでいるのか、話をよく聞いて理解した上で、相手に相応しい教えを説いた。
言葉は対話の上でしか意味を為さない。二人とも、それをよく知っていたと思う。
ブッダが臨終の際、弟子たちは「(偉大な指導者である)あなたを失ったら、私たちはどうしたらいいのでしょう」と嘆いた。だが彼はこう言った、「わたしは指導者ではない」。
ソクラテスもブッダも真理、まことのことわりを見ていた人たちだ。
対話は一対一だ、そして一人一人、生活の習慣、生業、生い立ち、その生における条件、どのような状況下であるかは全く異なる。悩み事も、感じ方も。
だがこの二人は、一人一人の、けっして同じでない一人一人の個から、まことのことわり── 万人、生者に共通の、繋がり── を見ていたはずだ。
何が正しい、何が間違い、というものではない。
まことのことわり、真理は「これがこうでこうであるから、こうなってこうなるのである」という、論理的で科学的といえる、誰が見ても「あ、そうだ」と首肯納得せざるを得ないものだ。
ウソもホントウもないものだ。そんな両極を越えてあるものだ。
ブッダの仏教には教義がない。ソクラテスの哲学にもコレといったものは特にない。
二人は、ひとはどう生きるべきか。まことのことわり、真理にしたがって生きるには? これをひたすら探求し、見つめ続けた人間だったと思う。宗教も哲学も、そんなもんどうでもよかったのだ、ひとがどう生きるべきか、これが何より最上の問題であり関心事だったのだ。
大江はイーヨーが生まれてからイーヨーのことばかり書くようになり、セリーヌはユダヤ人のことを知ってから小説どころでなくなって、ユダヤ人を攻撃し読む者に彼らの悪徳を知らせようと、読者に訴えるものばかり書いた。
それぞれの情況、条件、個人的な体験。そこからしか、ひとは生きられない。
それでもまことのことわりは存在する。
荘子の「道」だ。
道理も真理も同じだ。こうであるからこうである。こうであるからこうである。こうであるから、こうなのだ。突き詰めて、煎じ詰め、よく吟味し、よく思い、よく考えれば、そうならざるを得ないものがある。その存在、そうさせる存在そのものは、正体不明である。だが、それがあることはわかる。
それに向かって生きること。
それしかできないということ。それは、今が最高なのだ、今が最上なのだ、ということ。と考えたい。
どこまでも「個人的」には。
世界を見れば、まったく、死にたくなるほど酷いもんだが…
どうしてこうなったのか。
理由もなく作られた、人間。
「お前はこのために生を受け、生きるんだよ!」ああ、だれもそんなこと言わなかった! 何のために生きるのか、無目的、理由もなくこの世にいる!
だが、正誤表を超えた「正しい生き方」はある。それはある!
それにそぐうように、生きてくだけだよ…