老い(1)

 頭の良い人に限って、人の言うことにたなびき、すがりつこうとする… 自分の処理できない問題に直面し、壁にブチ当たった時に。何が「頭の良い」のか知らないが、想像するに「答の解るもの」に対しては明晰な頭脳の持ち主だ。だが解答のないもの、人間が作った問題以外のことについては、いきなり途方に暮れ、他者の言いなりになろうとする… ことにその他者がその道の専門職であり、権威があったら、喜んで付き従う。

 彼は、自分の力ではどうにもならない問題に対して、どこまでも無力だ。どうにかできる、と、そして信じたいのだ、自分のできないことを他者にすがって。そのためには騙されたって構わない。自分の信心が、自分ではどうにもできないことをどうにかしてくれるかもしれない期待が、すがりつきたい希望が、疑念の入ることを許さない。

 老いなんて、自然の現象だ、ボケることの何が病気か。
 それでも彼は老いた両親を〈認知症専門〉の、東京の一等地に建っている瀟洒なビルの一室に連れて行くのだ。毎月一回、〈診療〉費二十万! 毎日飲むようにと、何やら浄水される容器ももらって。

 老人ホームに入れることを彼は拒んでいる。姥捨て山を想起するからだ。自分で面倒をみたい、最後まで、と思っている。だが会社の重役である彼一人ではどうにもならず、ヘルパーを雇い、デイサービス施設にも通わせている。
 母堂の方はもう自分が誰だかも分からず、夢の世界を生きている。大変なのは父堂だ、ヘルパーの来ない日、デイに行かない日など、成り立たない会話、おかしなことばかりする彼女にイライラし通し、顔が歪んでいる。

 ぼくは思う、「最後まで面倒見たい」は、彼の自己満足ではないか。父堂も苦しいし、母堂を𠮟りつけてばかりいる。母堂だって言い返し、ケンカになったりもする、口論… 「論」も成り立っていないのだが。

 いくら長年連れ添った夫婦とはいえ、昔の、「しっかりしていたお母さん」ではないのだ。それが老いるということだ、でもお父さんは「しっかりしてくれよ」という思いが捨て切れない…。