認めよう、ブログは失敗だったと。
しかし発見もあった… ブログ村とか人気ランキングとかいう「登録先」の会員になって、知れたこともあった。はっきり言って、申し訳ないがつまらないものが多かった… 信じられないものが多かった。作り手の多くは「いいね稼ぎ」なのだろうと思った。こんな状態になっているとは思わなかった…
こんな言い方が許されるなら、民度が低くなっていると思った。人の、レヴェルのようなものが。要するに失望、幻滅… 会員になっていることが恥ずかしく感じられた…
「胎動」の頃(2005年~)は、人はもっとちゃんと自分のことを書いていた気がする。自分の言葉で日常を書き、恋愛について書き、憂鬱について書き、猫のこと、音楽のこと、読書のことを書き… そういう人たちとリアルに友達になれた。一緒に飲むビール、初対面の緊張、居酒屋がなんと楽しかったことか!
そのような人、何も会いたいとまでいかないまでも、コメントを残そうとしたり交流をしたいと思えるブログがなかった。書き手は、存在していないかのようで… と言っては言い過ぎか。
精神的な病、その種類の多さにも驚いた。
「生きる」という言葉にこだわる自分としては、精神的なジャンルでの投稿になる。だがその区分け、細分化のこまかさと来たら!
特化、というらしいが、そんな、一つの分野だけを専門にして… 一線を画す(でないとジャンル分けができない=ブログとしての置き場所がない)、 この住み分けのこまかさ、厳密さ、厳格さのようなものは何だろう? なぜそんな、括らなければならないのか?
書いて発信する人が多くなったから、大まかな括りでは読みたいテーマにたどり着けない、細分化・特化すればすぐそこへ行ける、ダイレクトに関心事の対象に行ける… 電子辞書がそうだ… というのはわかる。
ブログの世界も必然、こうなったにしても、事柄・事象ばかりが幅を利かせ、「人」が見えなくなるほど隅に押し込められてしまったように感じる。
言葉のやりとりがなくなったこと、これは大きい。
読んだ感想をもらえばその人のところにも行き、交流というものができていた、言葉によって、おたがいに本気の嬉しさを伴って。
それが「ぽちっと」で終わる。関係も何もない、「ぽちっと」で!
これは便利、ありがたい! 面倒な言葉選び、気を使う言い回しも要らない、読んだのかどうかも分からないけれど「来ましたよ、よかったです!」らしき足跡だけは残せる…
人を食っちまうんだよな、簡単な、安易なものは。「これで済む」って。
役に立つこと・有益であること以外は、特に用なし、ご要り用とされない。役に立つ情報、役に立つグッズ、役に立つ言葉! 非生産的な、実生活で役に立たない匂いが少しでもしようものなら、すぐフタは閉じられる。
シホンシュギ… ヒトのココロもシホンシュギ? そんなゴーリ的にできてるもんじゃあるまいに…。
人の目につかぬところで書き続け、でもこれはこれで面白いものだった、必然の自然、自然な必然、ただ毎月コノハウイングに料金払うのがもったいなかった。レンタルサーバーとかいうものに。
Noteというのも気になるが(ランキングがないというのは素晴らしい)、もうそういうのはいいや。
失敗だった、失敗した、と思えたことはよかった。