宗教(1)

 いったい、この世界にはいくつの宗教があるのだろう?
 イスラム、ユダヤ、キリスト、ヒンズー、仏…その「教」の下にはまた様々な宗派に分かれていそうだ。
 モンテーニュの時代はカトリックとプロテスタントが戦っていたのだっけ? ~教と~教、それだけでも互いにうまくやってけなさそうなのに、一つの~教のなかでも対立するんだから大変だ。
 アラブ系、石油王の人はイスラム教かと思っていた。頭に輪っかを付けて、白い布みたいなのを頭から伸ばして。でもユダヤ教というのもあるんだな。インドは仏教国かと思っていたら、ヒンズー教徒が多かった。
 宗教というのは、よくわからない。ぼくにわかるのは、そういうものを信じる人達がいるということだけだ。信じたい心があるということ、それだけが各宗教に通じる、唯一絶対の共通点。その対象がキリストであれアッラーであれ、たいした問題ではなく見える。問題になるのは対立があり抗争があることで。肝心なのは、その問題を引き起こす、その心で。

 ぼくの家が浄土宗だったと知ったのは、父の葬儀のときだった。実家は古い家だったから、仏壇もあった。祖父母の遺影があったり、ご先祖様?の位牌?もあった。小さなものだった。中学の頃、登校前にお線香をあげ、チーンと鳴らし、手を合わせた。何を祈っていたのか、覚えていない。兄がそうしていたのを見たことがない。父も。母が唯一、仏壇の面倒をみていた気がする。
 ひとえに仏教といっても、ブッダの仏教というのは日本にありません、と聞いた。今奈良に住んでいて、彼女と散歩しているとき「マインドフルネス講座、無料、どなたでもご参加ください」というような掲示板を見た。「行ってみたら?」と彼女に言われ、行ってみたお寺の住職がそう言っていた。

 ブッダという人への興味は、手塚治虫のマンガの影響もあった。ブッダに関する本も一人でよく読んだ。はっきりいって、こうしなさい、ああしなさい、といったことは何もなかった。天国があるとか地獄があるとか、死後のことなんか何もいっていない。そんなことを考えるより、今生きていることを考えた方がいい、と。
 たぶん宗教の共通点、人が宗教にすがる心に、死への不安、病気への不安、まるで幸せでなさそうな現状への不満があるだろう。それを軽減したいために、あれこれする。お布施をしたり何か買ったり。
 今をどうにかしたいことには、変わりない。
 ただそれを、他のものに頼るのはどうかと思う。頼るという言い方がおかしいなら、そっちへ心を向けるのは、と言い直そう。
 精神を病んだ人が、よく薬を処方されるが、薬は物質である。心、精神は物質ではない。物質でないものに、物質で対するのはどうかと思うのと同じように。

 心、それじたいが問題を抱えているのだ。あらゆる問題の萌芽、と言って過言でない。
 規則にしても教えにしても、それは「他」のものだ。この教えに従わなければ幸せになれないとか、ダメだとか、そんな考えはおかしい。
 だいたい心、精神なんて、自分の中にしかない。各々、一人一人の中にしかないのだ。それを十把ひとからげに「こうしなさい」はおかしい。
 感じ方も、考え方も。そこに、問題解決の萌芽がすでにある。解決に向かえるステップがある。すでに、個々人にある。すでに一人一人がもっているものが。糸口が。
 一人一人が神なんだ、いってみれば。悪魔にもなろうし、天使にもなるだろう。
 ぼくの中の神や悪魔は、自分の中だけで済ませたい。諍い、争いは、ぼくの中だけで、きっと十分すぎるほど十分だ。