宗教(2)

 神はつくられるものだ。ブッダにしたって、弟子たちが神格化しただけだ。
 信奉するあまり、ありもしないことまで大袈裟に書いてしまった。その心はわかる。でも書かれたことはウソだと思う。比喩だと思う。修行すれば、こんな力が身に付きますよ、なんて。こうやって生きれば、世界は平和になりますよ、なんて。
 修行から脱落した人は、規律を守れない人は、じゃあどうなるのか、という話だ。そこで取捨選択するようなカミサマは、たいしたやつじゃない。
 昨日、十年ぶりぐらいに友達のお姉さんからメールをもらった。ぼくが夢に出てきたというのだった。彼女とは十年前に、彼女の、だから友達のお父さんのお葬式で会っただけである。
 当時から、弟(ぼくの友達)のことを心配なさっていた。強迫観念症ではないかとか、神経症か何か、そういった語句を用いて。

 ぼくは、その時点ですでに彼女から一歩引いていた。心の問題を、そういった病名にあてはめることに。
 そりゃそういった精神的な病、「治療」が必要な人もあるだろう。でもぼくの友達にかぎっていえば、彼はずっと彼であったし、それで特に誰に危害を与えるわけでもなかった。むしろ、そういう病名に彼の精神をあてはめてしまう彼女のほうに、ぼくは申し訳ないが危険を感じてしまった。
 宗教的なものを、そこに感じてしまったのだ。

 まったく、こういった「形のないものを形におさめたい」とするところには、何とも言い難いウサンくささというか、宗教的な、何か信じられなさがある。
 だが、考えてみれば、この世はそういったものに溢れている。もともと、存在じたいがよくわからないものだ。それをわかろうとするために、言葉を用い、形を用い、「わかる」につなげたいとするのだ。
 だが、「わかる」ということじたいが、形のないものなのだ。

 こんなことを書いているのも宗教的となりかねない。何も書かず、何も言わない、テレパシーで交信できればと思う。いよいよウサンくさい。でも、心と心でやりとりする── 多かれ少なかれ、人間関係、言葉や形以上のもので成り立っている部分、大きい気がする。
 ふしぎな世界だ。家人が仕事から帰ってきて、(あ、なんかイヤなことがあったな)と、言わずもがな「わかる」時がある。
 そうしてまた時間が経てば、やんわり変わって、おバカなことを言い合って。
 泣いて笑って。どうしてそう「感じる」のかもわからずに。
 ふしぎなことでいっぱいだ。いろんな神様でいっぱいだ。