漱石の社会批判、人のあり方

「二百十日・野分」(新潮文庫)を読んだ。
 面白かった! 引き込まれた。
「二百十日」はろくさんと圭さんの会話が主で流れて行く。
 二人の話、やりとりの中に漱石の云いたいこと、確かに垣間見えるけれど、読み易さが邪魔をした。すらすら読めてしまって、何か残ったものがない。あるけれど、希薄に残った。
 面白くないことはないが、「坊ちゃん」に似たような空気を感じた。あまり「坊ちゃん」は好きでない。ぼくが漱石に求めるのは、軽いだけの爽快さ、痛快さではない。

 対して「野分」は最高に面白かった。読後、興奮して眠れなかったほどだ。ラストには涙ぐんだ。漱石に泣かされるのは「こころ」「行人」に次いで三回目だ。
 こちらは読み難い。文体も古典的で、内容が難解というのでなく、文字を追うのが難しい。一行読むのに、よく吟味、考えなくてはならない。そうして初めて書かれた内容のイメージが湧く。
 中野君の園遊会の箇所はつまらなかったが(それまでがあまりに面白かったので)、ぜんぶ読み終えた後は、あの箇所が妙に鮮明に映った。

 この「野分」は出だしからやられた。行く先々で衝突し、転職── といっても教師だから学校が変わるだけだが、自分の信念を曲げず、だから辞めざるを得なくなる。
 そして辞めたことを、まるで後悔しない。どころか、平然と〈我が道〉を行く。
 この先生、白井道也どうやの生き方が、他人事とは思えなかった。まるでぼくだと思った、ぼくはうじうじと過去に捉われ、こんな先生のように堂々とできないが…「いいじゃないか、堂々としろよ」と道也に励まされた気になった。
 もっとぼくは、自分に信を持っていいんじゃないか。そんな気になった。

 その道也先生と相反する、高柳君がまた、うじうじする、まわりをきょろきょろして自信なさげな、ぼく自身を見ているようでもあった。
 この二人の人物は、しかし繋がっている。まるで違うように見えても、根本のところは深く同質だ。
 漱石の技巧のたくみさを改めて思ったが、それも漱石がこの一見異なる二人の人物を、かれ一人の中に抱え、煩悶、苦悩あってのことだろう。
 かれの生きた明治も、今の令和も、何も変わっていないことが明瞭に見えた。
 道也の主張は、漱石の主張だ。それもちゃんと理に適った、論理、道理に合った主張だ。
 いい本だった。一緒に生きて行ける本だった。