信じるということ

 スピリチュアルや「眼に見えないもの」を信じる人がいる。一種の宗教と思える。それを自分の前面に置き、それに導かれたいとして導かれる。
 だが導いているものも、導きかれている自分も、本人が頭でつくったものにすぎない。
 そも、信じるということを疑う必要がある。だが疑いがあっては信じられないところに悲劇がある。
「自分でつくっている」自覚がない。自分はこれだけ苦労をしたとかしているとか、自分を絶対化する。それも自分でつくっている自覚がない。相手を思いやるどころの話ではない。

 自分を絶対化すれば、王様である。まわりの人は、下僕である。そんなところから端を発する親子関係、他人との関係から、優しみなど生まれるわけながい。冷たい関係に育った人は、それを世界だと思う。
 世界が世界をつくっていく。
 まずは自己をよく、よく省みよ。〈救われたい〉ために、自分が楽になりたいだけのために、他者を利用するな。人のために立とうとすることは、恥ずかしさをもってせよ。

 所詮自分だけのためなのだと自覚せよ。
 人の役に立とうなど、役に立つ自分を欲しているだけではないか。
 前面にいるのは自分である。後方にいるのも自分である。よく弁えよ。
 人は、すぐそこにいる。それに向かうのは貴方だ、ご先祖さんや神さんが向かうのじゃない。

 精神世界なんて誰だって彷徨える。誰もが自分を可愛がる。
 信心それ自体があやふやなものだ。これをよく弁えた上でやっていかないと、いつまで経っても彷徨うことになる。しかもそこは借りものの土俵だ、自分の砂でなく、借りてきた砂だ。
 どっちにしても彷徨うことに変わらない。にしても、土台が違う。あさっての〈精神世界〉は、人工芝だ。自生している、貴方の土壌をよく見つめ、そこから始めるがいい。

 そこからきっと、ほんとうに優しみが他人に伝わるだろう。何があっても、それは誰のせいでもない、自分自身の事なのだと、他に無いから明らかになるだろう。
 自分は不幸なのだと後生大事に思っていたいなら、ずっとそう思っているがいい。どうぞご随意に、そうして行けばいい。自分は可哀想なのだと悲劇の舞台に立つ、その随意、ご自由さを覚らず、ここにある足を自覚せず、見向きもしないも同然に、死ぬまで遥か彼方に向かって歩を進めるがいい。