考えてみるまでもなく、気づこうとしてみれば── こんなことを書いて、ましてや人様に開示すること自体が相当恥ずかしいものだ。更には、生きているということだけでも恥ずかしいものだ…
「人に見せる」これだけで、わざとらしいものだ。いやらしいものだ。
 それをなくして、やって行けない── どこにいたって、人とふれあい・・・・、人に自己を見せ、人の自己を見せられる。真意、虚意に関わらず、そうして存在どうしが成り立っている。

 恥ずかしさを感じることは大事なものだ。大事にしないと、決壊する。止めどもない洪水に見舞われる、他者も自己も流される。ところが、恥ずかしいと感じられるのは自己しかいないのだ。
 全く、生きているだけで恥ずかしいことだ。この恥ずかしさの裏面を見れば、「こうすべきだ」の規定がある。自分で自分に決めている規定だ。ここから外れた言動をした場合、恥ずかしい、と、初めて感得する。私が私に。

 ここに収まっている間は、恥ずかしさなど感じない。どころか、誇らしさを感じる時さえある。それも自分で決めた規定に依る。── ほんとうだろうか。その規定、ほんとうに自分で決めた?
 思い当たる。「ほんとうは、こうするべきだった」。それをそうしなかった時、自分は酷い恥ずかしさを感じる。
 ところが、その「ほんとう」には、必ず他者があった。その存在があった。その存在、他者と自己との関係からの「ほんとうはこうするべきだった」のだった。

 すると、ほんとう、というものは、自分の規定したものではなかった、ということになる。
 そう判断したのは自分である。「こうするべきだった」と。
 が、その判断をもたらしたものは、その判断をする前の判断なのだ。
 その「後判断」をしたのは、「前判断」をした自分に対する判断だ。
 規定は、その時初めて生き生きと、強固な枠組みをもって立体になる…

 後悔。
 後悔は、また別のところに息吹く。?
 規定から外れたこと、生誕場は同じだ。が、後悔は自己規定の面よりも他者による影響、他者との関係における比重が大きい。恥ずかしさもそこには同居するが、その時、規定から外れた自己に対するというより、他者(物)との関係における自己、かれ・・とともに過ぎた時間、その時間における自己への、更に言えば「なぜかれとともにいたのか」という、関係そのもの、その関係をした自分そのものへの、その時間への、自己自身への「規定」内からのそれである。その時、規定は生きていない。生かされていない。

 或るもの、在るものは生かした方がいい。既に死ぬことが規定、自己の意志思惑と無関係に、死によって規定されている存在である以上、この中で、その中で、自分が規定する判断、自分によって判断された規定から、生きていくことが、もし善悪、善い生、悪い生があるとするなら(それも規定だ!)、せめて自己にとっての善、独善といえば独善だが、人が人以上になれぬことを踏まえれば、人としての善── に生きることが、けっして不可能でないことが判断できる。