結局、生者の問題、権利、死者は知ったこっちゃない。
ただ今自分はまだ生者であるので、この間に言っておこう、と。
いつかも書いたが、順調に年齢通りにこの世から旅立つとしたら、実家にいる兄→ 今自分の一緒に暮らしているパートナー、私、である。で、自分はおそらく孤独死(これも不思議な言葉だが)すると思う。
さて、問題はその後なのだ。今のうちに言っておこう、自分は共同墓地とか無縁仏とか呼ばれる、知らない他人どうしの集合住宅墓地でいい。それを望む、と言ってしまおう。現実的に、今も含めて、そうした方がいいのだ。
今の現実といえば… 今週も行くが東京の実家、母の十三回忌に行く、まだ「実家」と呼べる所である。それも兄がいるということであって、兄がいなくなったら自分はもう実家に行くこともない。甥が後を引き継ぐし、彼には子どもが三人いる。生活も大変だ。墓には維持費もかかる。
自分は実家にほとんどいないで来たから、甥や姪ともたいして親しくない。叔父として自分は何もしていない。自分は、そんな、血縁者というだけで、それまで親しくもなかったのに、死後の面倒、手間など掛けたくない。
ただ困るのは、私がひとりで死んだ後、役所が調べて身元引受人のような、要するに血縁者に連絡が行ってしまうこと。自分が遺言も何も残さず、そうなったら、やはり今生きている自分としては実に困る。いやだ。
今週みんなと会えるし、みんなといっても大人四人だが、その時かめ家の跡取りである甥に、とにかく自分は葬式も墓も要らない、ということは言おう。死者よりも、生者優先。
ああ自分は死んだらこの墓に入るのだ、というのも生きてる間の慰安にはなるだろうが、そういった生き方はやはりして来なかったと思う。墓なんか、ない方がいい。
しかしそう考えると、何やら生き生きしてくる(?)から不思議だ。今を、いっしょうけんめい生きよう、というような気がしてくる。