基準

 善悪の基準、正邪の基準。
 この基準を持つ前は、赤ん坊であった。知ではない知、「成長」して「知」った知ではない知を、しかし備えていた。
 それは本能と呼ばれようが、どんな名称を付けられようが人間の知を越えることのない、身体に組み込まれた「知」、知などと呼ぶのもおこがましい、途轍もない奇跡、途方もない、およそ人智の及ばぬ奇跡のようにみえる。

 人間がいちばん関心を持つのは自分自身── というのも、「自分から世界が始まっている」からだ。自分がいなくなれば世界もなくなる。世界はあり続けるにしても、それを見る自分がなくなれば、世界の一つの終わりである。「一」にとっては「全」の終わりであり、全にとっては一の終わりである。全をつくってきた、この世が人間における全であるなら、この世の構成員Aがいなくなった、ということになる。
 この構成員Aは、どんな人物であれ、この人間社会、人間世界上ですでに忘れられた存在であった。彼が生きていたということさえ、知る人は少ない。特に彼を知る者がいなかったからである。

(しかし人を知る、とは? 「私は彼を知っている」という時、私は彼の何を知っているだろう? せいぜいその名、彼のイメージ、印象、彼はこんな人だった… ぐらいなものだ。それでも人は言う、「私は彼を知っている」。
 彼が生前、多くの著作を残したとしよう。あたかも彼の性質、為したこと、仕事、生き方、考え方、生活模様等が書かれていたとして、それを隈なく読んだ者がこう言うとする、「私は彼を知っている」。しかし、そして何を知っていることになるだろう?)

 ああ医学や科学、スマホの進化AIの進化、これこそが人類至高の智慧叡智である!
 内面性、哲学、考え方、徳、これらはカネにならない! 何の利便性もなし! 寧ろ人を立ち止まらせ、考えさせ、つまりは悩ませる有害なもの!(そして利便性に基づき、悩ましき内面に捉われた者には最新の医療が用意されている、細分化された病名をもって)

 ああ冗談のような世界。死ぬまでにしか感じ得ず、観じ得ないことだ。眼が見えなかろうと、耳が、口が効かなかろうと、世界を感じること、身のまわりの世界を、またその身自体を感じ、観じることができる限りの、一つ一つの生であること── ここにはいかなる枠も名称もフレームもレッテルも、そぐうことはない。当て嵌めることは、永遠をそこなうことになる。
 ああ生に限りがある限り、死は永遠である。生が時間に属する限りは。

 これは何も死にのみに当てはまる話ではない。永遠性を感じ、観ずる者はそれがその者の性質だったのだ。しかし生が限りあることを誰もがあたかも知っている。しかしそれが永遠性によってあることを重視する人は少ない。永遠性が、せめて生と同等の位置から人が感じ、観ぜられるなら、これほど刹那的に、「自分さえよければよい」現存の社会世界の立つ瀬はなかったろう。
 
 いや、べつに何も書こうとなんて思っていない。ただ「愛のわざ」を読み進めていると、読み終えたが… 悲しくなった。このひとの云いたいことが、この世ではもう通用しない、そんな気に苛まれて。
「世俗には、それほど目を向けなくてもいいんじゃないか。世間は、きみがきみ自身について考える── きみ自身を知り、きみ自身の世界を充実させるための機会にすぎないことは前にも言ったろう?」

「この世に通用するとかしないとか、生きる価値がないとか、そんな世俗的なことより、きみはきみの内面へ、だからほんとうのことへ、そして通じていく永遠性へ足は進められるべきだ。時間の中にしかすぎないものに捉われるよりも、きみは元々かの世界に目線を遣り、その精神の目を持っていたからこそ、それに捉われていたんじゃないか。

 確かにきみは今、永遠性と時間性のあいだにいる(このあいだにしかいられない)わけだけど、きみは自分が無力だと感じられる能力があったじゃないか。世俗のことでない、永遠性からして、それを感じ観ずる性質故の、だからこその無力を、きみは身をもって感じられたじゃないか。それは素晴らしいといっていい性能だ、そしてきみはそのきみ自身をずっと生き、観じていたじゃないか。」

 確かにそうだ。荘子の「道」、ブッダの「法」、ソクラテスのこと、きみは「愛のわざ」の中で、ぜんぶ通じていることを云っていると思う。荘子もブッダもきみは知らないだろうけれど…。きみの信じるキリストも、同じことを云ってたんだね。 だからほんとうのこと、なんだろうね。ほんとうのことは、何千年経っても同じであり続けるんだ。

 悲しいのは、ああセイレーン、きみもそうだ、この賢者たちの云っていたことが、今の世に全然生かされていない、これからも生かされそうにないことなんだ! いや、ぼく自身に、生かす力がないんだな。まわりは聞く耳を持たないだろうと思う。現代においては障害になるんだ、哲学や善、徳、正しさ、人間としての、というものに関することは。
 これだけ時間が速く流れ、人が流される時代には、もうムリなんだよ。
「だから永遠性なのだ」ってきみは云う。そうだとぼくも思う。そしてきみの生きた1800年代からそうだったんだことを確認する。2000年前から、いや、何億年経ったって、人間ってのは変わらない。セリーヌの云っていた通りだよ。