極端であること、

 それはそんなに悪くないことだ、と言いたい文章だった。
 自分を苦しめること、これはいかなる場合でもそうである、苦しめるものは他ではなく自なのだ、他はそのきっかけにすぎない!
 あの会議が終わった後、あの会議が実際にあった時よりもリアルに、大きく、肥大膨張するのは、自分で自分をそうする「自由な時間」のためである。したがって、逆も全く然り、この自由時間、ひとりであるために、まわりにそのきっかけを与えた人がいないために、なんと楽しい、喜びに溢れる時間も有することになる。それができるのだ、結局は想像することで、また回想することで。

 その日のうちに、いやもう「今」のうちに、すでに想い出に浸ることがしょっちゅうである、恋愛の期間中などまさにそうだ、先へ後へ、今が過ぎ去る前から陽だまりの泉で沐浴する… と思いきや、一気に地獄の業火、煉獄にも行く。
 この浮き沈み、しかしこれは、ただこうであるということで、これを自分の枠、挙動範囲であるのだと、これが自分の精神の行動範囲なのだと、これを規定すれば、そこからハミ出ることもない。
 これが自分の限界だとか、それっきりの枠を組めば、それが限界となる。それを超えたらムリ、となる。
 が、ここまでなのだ、と基準をもっとあきらめてみてみよう。

 自分でつくっているのだ、最終的にも、最初的にも。それ以上でも以下でもないのだ。

 極端であることは、下と上、右と左、その両極であることだ。それも自分のなかでのことでしかない。まったく、そうなのだ。
 極端は、他、にはあり得ない。であるから、創作── 何か表現するにあたり、重要な土台になるのだ。そしてその両極の、いずれか、どちらか一方に自分を寄せ集めてもいけない。両極は、それを見るもう一つの視点がなければあり得ないものだからだ。
 その視点── その始点こそ、ああ、窮極のところ「神」といわれるものだとしても、それは神ではない。それは、まだ自己である。神的なもの、永遠的なもの、時間的でないもの、今生的でないものは、その上下左右など規定するものの外にある。人が規定する規定の、もっと枠外、枠などを持たぬ、その全体、全体などという全体などとは及びもつかぬ、まさに宇宙的なもの、としかいえない、思えない。そしてこの「思う」などというのも、およそ及びもつかぬところの、ところなどともいえないものだ。

 極端であることは、だからといって極端であることは── 確かに極端なことである。しかし、その極端を包み込む、包む意志など、何の思惑ももたず、ただそれを、極端を、大きく包容する… 当のそれは、包容などしていない、ただあるだけである、こちらは、極端であるものとしては、ただそう包まれている、その中であることしかできない、とするだけである。
 すると、極端というのは、なんとも petit な、愛らしい手のり文鳥のような小人にみえることだろう。
 その手は「私」の手にちがいない。そしてのっているのも私の想念にちがいない。それを描写する、書き写す、写生する。右左、上下左右、ああ、極端に、このなかで、精一杯の。