意味というと、様々なバリエーション、付け加え方に暇がない。隙あらば意味づけを! 人視眈々と意味づけを狙う。掃除の成果、料理の成果、文章づくりの成果、人との交流、☆、数、つまるところ一人では成果がないという「成果」。
ところで読み書きというのは、読んだ本、書いた文というのは、感想文を書かなければ、または誰かに話さなければ、何か書かなければ、または誰かに話さなければ、単なる「わたしひとり」の世界に留まる。誰にも読まれず、誰にも聞こえない。まして相手に読む気、聞く気がなければ、ひとりで書き、話しているのと変わらない。
「まだ列子は風に頼っている」(荘子)
いかにも気ままに生き、風の向くまま飄々と生きる列子に、荘子が云った。
そう、一人の、自己の中にあるものに頼ればいいんだよ。
自分の内ほど深淵な場所はこの世にない(R・エルツェ)。
自分の主たるものが世界の主(ゴータマさん)。
意味というと、どこからでも付けられる。個人的なもので、勝手に意味を付けられる。付けようとすることのできることが、意味の意味であるのかとさえ思う。はっきり言って、自由なのだ。怠惰な時間を過ごせば「充電」、充実した時間を過ごせば「満足」というふうに。
ところが意義となると、何か社会的なイメージがこの言葉から連想される。意義は、個人的な意味というよりもっと大きな、大義、というか、何か重々しい意味合いがあるように思われる。
キルケゴールが結婚について延々と語っているが、確かに昔は結婚というと重大な「意義」のある儀式、人生における個人の最大のイベントにとどまらず、家と家、代々を絶やさぬための「男優先」(男の子歓迎)、嫁は籍を入れたら生涯その家に、といったものが今より強固にあったろう。それはいわば「意義」、「社会的意義」、個人どうしにとどまらぬ、まわりを度外視できない「意義」だったと思ってしまう。
だから彼が結婚について延々と書くのも「意義」があったろうと思う。
だが自分には結婚というものが、それほど意味あるものとは考えられなかったし、今もそうだ。愛し合い、好き合って、その相手と一緒に暮らすことがまず何より第一であって、結婚する/しないは、特にどうというものではなかった。ふたりがその必要があると判断したらすればいいのであって、婚姻届を出すとか式を挙げるとかは特に重視しなかった。だから今読んでいるキルケゴールの「あれかこれか」第二部(上)は、丸々一冊が結婚について書かれているが、このテーマ自体にあまり興味がない。
しかし彼がここまで拘った結婚およびその前にする婚約というもの。彼をこれほど拘らせたもの、社会的なものをきっかけに、個人の彼が、個人である彼女と愛し合っているだけであるのに、結婚となると〈ふたりの世界〉にとどまることができなくなる── はたと思う、彼は責任感が強すぎたのだろうか? いや、そんなもんじゃないだろう。
彼自身の34歳までには死ぬだろうという思い込み(家系がそうであったからとはいえ)、この限られた生での自分のほんとうのやるべきこと、キリスト者としての自覚からの愛、可愛く素敵な女性であったレギーネを愛する気持ちに嘘偽りはなかったが、婚約を破棄することで彼女との関係も断ってしまった(断たれてしまった、と僕は書きたい)、この愛する気持ちと結婚というもの、この精神と事実の時間の中で、彼はとにかく考え続けていることを書き続けている。
僕にとってのこの本の意味は、彼の結婚に対する思いに意味を見い出すことより、やはり彼の、結婚に対してこれだけ拘った、この精神そのものに行ってしまう。